日本初の女医が二人?楠本イネと荻野吟子
明治十七年(1884年)6月20日、政府が、女性の医術開業試験の受験を認可しました。
・・・・・・・・・・
ネットで「日本初の女医」というキーワードで検索すると、二人の女性の名前がヒットします。
一人は楠本イネさん、もう一人は荻野吟子さんです。
日本初・・・なのに、二人・・・?
実は、それには、明治八年(1875年)に始まった医術開業試験制度と、明治十七年(1884年)に、その試験を女性が受ける事ができるようになった、今回の女性の医術開業試験制度への受験認可が、深く関わっているのです。
つまり、江戸時代の頃は、今のような国家試験などは無いわけで、極端な話、看板をあげてそれらしく開業すれば、皆お医者さんだったわけです。
ただし、実際には、しっかりと医学を勉強し、ちゃんとした治療をしなければ、患者さんが継続して来る事はありませんし、多くの病人を助けた実績がないと名医とは呼ばれませんが・・・(6月21日参照>>)。
そんな中、文政十年(1827年)に生まれた楠本イネさん・・・父親は、長崎の出島に滞在して鳴滝塾(なるたきじゅく)を開いたあのドイツ人医師・シーボルト(3月25日参照>>)で、母は、彼の日本人妻・たきさんです。
出島へは、基本的に日本人は立ち入り禁止でしたが、それはそこ・・・当時は、遠く海を渡ってやって来る外国人は、ほとんどが男性ですから、たきさんのような遊女たちは例外だったのです。
そんなたきさんに一目惚れして妻に迎えたシーボルトでしたが、例の日本地図を持ち出そうとした『シーボルト事件』(9月25日参照>>)で、国外追放となってしまいます。
父がいなくなった後、イネは、再婚した母とともに、連れ子として再婚相手のもとで暮らしますが、成長するにつれて、自分が、他の子供たちとは違う事に気づきます。
もちろん、それは、連れ子という立場ではなく、ハーフという事・・・なんせ、当時はメチャメチャ珍しいですから・・・。
やがて、彼女は父の歩んだ道と同じ、医師の道へ進もうと決意します。
イネは、父の教え子だった伊予(愛媛県)宇和島の二宮敬作の元へ行き、そこで医学の基礎から勉学に励むのですが、やはり、女性である事を活かして産科医の専門知識を身につけようと考えます。
そして、敬作の勧めもあって、同じく父の弟子であった石井宗謙(そうけん)を頼って岡山に行きます。
しかし、ここで事件が起こりました。
実は、彼女はかなりの美人!ハーフ独特の彫りの深い顔立ちに、パッチリした目元・・・その美貌に目がくらんだ宗謙から、なんと!レイプされてしまうのです。
しかも、その一度の行為で、彼女は妊娠してしまいます。
やがて、女の子を出産した彼女は、失意のまま、故郷・長崎へと帰ります。
そんな彼女を救ったのは、やはり、父の弟子の一人・大村益次郎でした。
落ち込む彼女を励まし、再び宇和島の敬作の元へ連れて行きます。
もちろん、敬作も宗謙の仕打ちには怒り心頭でしたし、自分が紹介した負い目もありますから、快くもう一度イネを受け入れ、イネは再び敬作のもとで医学の勉強に励む事に・・・そして、ここでは、さらに外科医としての技術も身につけます。
やがて、益次郎に誘われて江戸へ行き、そこで開業医となったのです。
ここに、日本初の女医が誕生しました。
腕もよく、評判の医師でした。
明治二年(1869年)に、恩人・益次郎が暗殺(11月5日参照>>)された時には、彼女は外科医として、しっかりと恩人の最期を看取ったと言います。
しかし、そこへ先の医術開業試験制度です。
制度ができた以上、その試験に合格しなければ、医師として開業する事ができません。
しかし、この時の、この制度には、女性の受験は許されていませんでした。
そして、その9年後の明治十七年(1884年)に、やっと医術開業試験に女性の受験も認められるようになるのですが、実は、これには、陸軍軍医・石黒忠悳(ただのり)の強い気持ちがありました。
彼は、ある一人の女性のために、受験規制を隅から隅まで熟読し、そこに女性の受験に関する明確な事が書かれていない事を知ったうえで、内務省衛生局長の長与専斎(ながよせんさい)に直談判して、何とか認可させたのです。
嘉永四年(1851年)埼玉県に生まれた吟子(当時はギン)は、16歳の時に結婚しますが、その間もなく、夫から性病を移され、あげく果てに、その病気のせいで離婚されてしまいます。
治療のため、維新がなったばかりの東京・順天堂で2年間を過ごしますが、この時の男性の医師に診察される恥かしさが、彼女を医学の道へと進ませるのです。
一大決意をした吟子は、東京女子師範学校を卒業し、さらに東京下谷の医塾好寿院に入学、働きながら明治十五年(1882年)には、学問としての医学をすべて身に着けます。
しかし、やっぱり、ここで医術開業試験・・・すでに7年前に始まっていたこの制度のため、彼女は2年間の空白を持つ事に・・・
・・・で、彼女の事を知った忠悳の応援で、明治十七年(1884年)6月20日、女性も受験ができる事となったのです。
時に吟子・33歳・・・
そう、実は、この時、イネは57歳になっていたのです。
現在よりも、ずっと平均寿命が短い頃の57歳です。
イネはしかたなく、受験をあきらめます・・・しかし、医療の道はあきらめません。
医師ではなくても、その経験は活かせます。
彼女は、その後、産婆として多くの命をとりあげるのです。
一方の吟子さん・・・受験が認可された3ヶ月後の9月には、浅草の東本願寺で行われた試験を受験します。
受験者583人のうち、合格者は153人・・・この時、吟子と一緒に試験を受けた女性は、彼女を含めて五人いましたが、受かったのは、彼女一人でした。
彼女は東京の下町で開業し、ここに、二人目の日本初の女医が誕生しました。
後に、彼女は、明治女学校の校医も勤めます。
・・・・・・・・・
はてさて、二人の日本初の女医さん・・・
ともに、苦しみながら医学を学び、
ともに、女性の医師への道を開いたお二人・・・
「もう、両方とも初でいいやん!」と、思わせてくれる感動の人生ですよね。
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コメント
チョットお尋ねします。楠本イネさんと荻野吟子さんは接点というかお付き合いは有ったんでしょうか?親しく交際してたなら、荻野さんは楠本さんに対して師事するような関係に在ったでしょうか?また親しく交際は無かったとしたら、対面した事ぐらいは有ったんでしょうか?
投稿: マー君 | 2008年6月20日 (金) 21時02分
マー君さん、申し訳ありません。
お二人に接点があったのかどうか、私も知りません。
手持ちのいくつかの書籍にも、別々の場所で、お互いの事に触れずに語られています。
今回、お二人の事を同じ記事に書く・・・という事で、関係が書かれていないものかと、いくつかのサイトにもお邪魔しましたが、私の見た中では、お二人を同時に書いているサイトすら見つけられませんでした。
どれも、お一人づつ紹介されていて、しかも、記事のタイトルにもさせていただいたように、大抵どちらにも日本初と書かれています。
年齢に少し差があるものの、同じ時代に同じ女医として生きたお二人・・・どこか接点があるのでは?と期待しつつ、これからも、探してみるつもりでいます。
投稿: 茶々 | 2008年6月21日 (土) 00時44分
いつも楽しく読ませていただいております。
ちょっと気になったのですが、『・・・父の弟子だったあの大村益次郎でした。・・・』とありますが、大村はシーボルトの弟子ではないようです。
大村の生誕が1824年、シーボルト事件は1828、29年ですので。
御確認ください。
投稿: たこ | 2008年6月21日 (土) 17時50分
たこ様、ご指摘ありがとうございました。
申し訳ありません、少し書き足りないところがありました。
シーボルトは、日本の開国後に国外追放を許され、再び、来日していて、大村益次郎は、その時に、彼からオランダ語と医学を学んだそうなのです。
今一度、読み直してみますと、確かに誤解を招く書き方をしております・・・というか、その部分が抜けています。
申し訳ありませんでした。
今後とも、「おかしいな」と思われる部分がありましたら、どうぞ、ご指摘ください。
よろしくお願いします。
投稿: 茶々 | 2008年6月21日 (土) 18時38分
貴重な情報を有難うございました。
吉村昭の「ふおん・しいほるとの娘」によると、女性が初めて受けることが可能になった明治17年の医術開業試験以前に、医術開業試験が始まった時点で、漢方医の強い反発で25才以上の開業医には試験が免除されイネも免状を得たように書いてあります。
世間は「お情け免状」と称したとも出ていました。
貴文中の「イネはしかたなく、受験をあきらめます」というのは正式な試験を受けようという気持ちをイネが持ち続けていたということなのでしょうか。勝気なイネならありうると感じました。
イネと開業試験の関係について諸説あるようです。以上の点についてお教え下さるようお願い申し上げます。
投稿: ハヒーフ | 2012年9月13日 (木) 09時59分
ハヒーフさん、こんにちは~
医術開業試験制度が始まった時に、すでに開業実績のある漢方医に試験が免除された話は聞きましたが、イネも免状を受けていたという話は初めて聞きました。
確か、イネには「自分の力で試験に合格して正式な免許を受けたい」という希望があり、免除の制度は利用しなかったと聞いております。
しかし、本文にも書いたように、当初は女性の受験が許されておらず、女性への門が開くのを待っている間に年老いてしまったので諦めたと…
「ふおん・しいほるとの娘」という作品は小説ですよね?
ただ、吉村昭さんという方は歴史史料を調べ抜いて小説を書かれる方なので、どこかでそのような史料をお知りになったのかも知れませんが、私自身は知らないので、何ともお答できません。
ただ、医術開業試験制度が始まったと同時に、盛況だった東京の医院をたたんで、長崎に帰るので、やはり免状を持っていなかったのかな?と考えておりますが…
投稿: 茶々 | 2012年9月13日 (木) 14時01分
早速のご回答を有難うございました。
吉村昭 歴史小説集成六(岩波版)の650ページに、明治11年長崎で「医師免状は持っているが、産科医の看板をかかげる気になれなかった」とあるので、長崎に帰った時には持っていたようです。
しかし医師開業試験に対するイネの気持ちが「自分は医師なのだからきっぱり拒否した」とか「最新の技術を知って諦めた」とかいろいろ解釈があるので貴解釈について質問させて戴きました。
いろいろな解釈を知ってこの問題は未だに謎であると感じています。
荻野吟子を女医第1号という説が多い中で
第2号とする貴説に大いに賛同敬服しています。
多々ご説明戴き有難うございました。
投稿: ハヒーフ | 2012年9月13日 (木) 16時39分
ハヒーフさん、こんばんは~
現存する史料で、当時の方々の思いを知るのは、なかなかに難しく、どの史料に重きをおくかで解釈が異なるのも致し方ない事…
その一方で、様々な意見があるからこそ、歴史はオモシロイのではないかと思います。
ただ、歴史小説は創作物ですので、実際の歴史とは分けて考えられた方がよろしいかと思います。
また、機会がありましたら遊びに来てくださいませ。
投稿: 茶々 | 2012年9月14日 (金) 02時00分
ブログ主さま
荻野吟子さんに逢って着ました、埼玉県妻沼町の道の駅に、当時の往診用の女医の制服が展示場に在りますので…
埼玉県妻沼町付近に生家が在りますよ、荻野吟子さん御本人には、当時60歳後半だったか、北海道の診療所で、遭遇しました、研究熱心な女医さんだったと記憶してますよ、日本は江戸時代以前から医療関係は開業資格を許可制ですから、看板を掲げただけでは市中引き回しの上に遠島の刑ですので、多分な…
仏教の蘭学医と御殿院として薬剤師が医師に成ります。医師資格は或るのですよ♪
解体親書が当時のポルトガル語の長崎蘭学法医から翻訳し書き取り写して、医学書にしたのです、御産婆さんが当時は男性で女性は医師と認めて貰えません。残念にも大正時代以降の昭和終戦間際まで女医とは言われなかったとか、日本初の郵便飛行機女性パイロットも埼玉県妻沼町から、日本で有名人に成りましたので、書き込みコメントを致しました。
解体親書は北里大学の創設北里博士から、若い研修時代の教科書だったと訊きました、素晴らしい女医誕生時代でも在りますね!
投稿: 外科医(^_^)v | 2014年8月21日 (木) 06時17分
ブログ主さま
日本は男尊女卑の法事国家(奉事国家)が武家制度よりまだ、一部分は現代でも在りますので…
明治初頭より女医誕生でも白衣は施術だけに着る事に成りました、診察着は往診用は素晴らしい古典的なドレスの様です、私は白衣を着た荻野吟子さんには一度だけで、診ましたが、施術着(手術)割烹着の様な、白衣だったかと、頭に角隠しの帽子に白衣でした!
何時も、内服薬の調合を考えてましたね、
若き日の日本初の宇宙飛行士向井さんもまた、群馬県館林市の当時は看護婦さんでした、今は立派に医学博士… 日本初の女性医学博士かもね…
投稿: 外科医(^_^)の追記 | 2014年8月21日 (木) 06時47分
外科医(^_^)vさん、こんにちは~
色々な情報をありがとうございますo(_ _)o
少し言葉足らずでしたか…「江戸時代の医者は誰でも…」というのは、いわゆる国家試験などが無いという意味でして、さすがに名字帯刀を許されていますから届け出等は必要でした。
その辺の事情は2008年6月21日の【チョット驚き!大江戸医者事情】>>に書かせていただいてたんですが、新ためて、このページの本文にもリンクを貼らせていただきました。
また、『解体新書』に関しては2007年3月4日の【杉田玄白・解体新書の話】>>のページで、医術関連では2013年12月18日の【宇田川玄随と津山洋学】>>でも触れておりますので、また、見ていただけるとウレシイです。
ありがとうございましたm(_ _)m
投稿: 茶々 | 2014年8月21日 (木) 13時22分
茶々さま
返信をありがとう御座います。
自分の年齢的に荻野吟子女医さんに逢えた事は、運が良かったかと思います。また、楠本イネさんの肖像画は、楠本イネさんの恩師の肖像画だと訊いてますよ、楠本イネさんもまた、女医の前任者が無くては、日本では女医さんとして認識は大変な時代ですので…
日本初の医療はヤマト朝廷時代前から神官たちより、邪馬台国や縄文人の物造りが彦 人命を救う人の名前に尊と命名し、命と名乗ったそうです。
日本初は歴史でも在りますので…
投稿: 外科医(^_^)♪ | 2014年8月24日 (日) 08時32分
外科医(^_^)♪さん、こんにちは~
記紀にも医療行為とおぼしき記述が出てきたりしますね。
神々の名が具体的に何を表しているのか?興味深いです。
色々なお話、ありがとうございました。
投稿: 茶々 | 2014年8月24日 (日) 16時20分
茶々さま
最近はエボラ熱や広島の災害で大変な事態ですね…
楠本イネさんも、二人だったかと思いますよ、双子では無いですが、肖像画は楠本イネさんの恩師にあたる方、楠本イネさんは患者さんが訪ねて来ると、先ずは、患者さんの顔色を診て、恩師に相談して、漢方薬を調合し与えてたらしく、善い女医さんだったとか、そんな時代のお医者さまでした。ありがとう御座いました、
投稿: 外科医(-.-;) | 2014年8月30日 (土) 04時35分
外科医(-.-;) さん、色々と教えていただき、ありがとうございましたm(_ _)m
投稿: 茶々 | 2014年8月30日 (土) 16時01分
外科医さんは一体おいくつの方なのですか?百歳は越えてますよね!
私の祖父は百六歳なので、もしかしたら外科医さんのこと知ってるかも。
聖路加病院の院長さんもギンさんにお会いしたことありますよね?
投稿: マサくん | 2015年2月 8日 (日) 02時11分
マサくんさん、こんばんは~
コメントありがとうございます。
そうですよね。
吟子さんは、大正二年(1913年)に62歳でお亡くなりになっていますので、その亡くなられた年にお生まれになった方なら102歳ですが、お会いになった記憶があるのですから、外科医(-.-;) さんは、それより上の相当なご高齢とお見受けします。
その年齢でネットサーフィンされてブログにコメントもされ、最近のニュースもよくご存じなのはスゴイ事だと思います。
投稿: 茶々 | 2015年2月 9日 (月) 04時37分
荻野吟子記念館の近くに住む者です。
「お滝がシーボルトに送った手紙」が見つかったというニュースから、このサイトに行きつきました。
お滝さんと荻野吟子さんの記述、とても興味深く読ませていただきました。
特にお滝さんのこと…詳しく知りませんでした。
旧妻沼町(現熊谷市)の407号国道から荻野吟子記念館まで福川の土手が舗装されて遊歩道になり、私は散歩ついでに記念館に寄って休憩します。
土手は草が覆いかぶさり歩く人も自転車で通る人もほとんどいません。
皆さん、記念館にはクルマで来ます。
二回ほど、記念館で説明を聞きました。
先日は友人を連れて…。
同行者が次々と質問すると、解説員の回答は歯切れ悪く「実はですね…吟子さんは、京大の学生を追って北海道へ渡り、医師としての仕事は、あまりしていないのです…」から始まり地元の人用にホントの話をしてくれました。
北海道から戻った時は、女医も増え、医学も進歩しており医師の仕事に復帰しなかったそうです。
でも医師の資格を取得するまでの努力と能力はすごかったのです…そこを評価してください。
いえいえ、吟子さんの人としての面白さが分かって良かったです。
お滝さんも吟子さんも人です。
そして女性です。
どちらもすばらしくスゴイと思います。
投稿: 三太郎 | 2018年10月12日 (金) 17時05分
三太郎さん、こんばんは~
コメントありがとうございました。
荻野吟子さんの記念館があるのですね。
>吟子さんは、京大の学生を追って北海道へ…
なるほど…イロイロ調べてみても、試験に合格されてから後の事が、あまり見つからないのはそれでなのですね。
恋と仕事を両立させる事は、平成の現在でも難しい事です。
むしろ、吟子さんが新しい恋に目覚めておられた事に、おっしゃる通りの人間味を感じてステキだと思います。
投稿: 茶々 | 2018年10月13日 (土) 01時56分