秀吉・もう一つの一夜城~石垣山城の謎
徳川家康の側近であった松平家忠の『家忠日記』によれば、「天正十八年(1590年)6月26日に石垣山城が完成した」と記されていますので、本日は、一夜城として名高い石垣山城について書かせていただきます。
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九州を平定して天下統一を目前にした豊臣秀吉に対して、最後に残った大物勢力は、あの北条早雲以来、五代・100年にかけて関東一円を支配してきた北条氏。
その北条氏を討つべく開始された小田原征伐(3月29日参照>>)。
天正十八年(1590年)の4月3日には、秀吉は北条氏政・氏直父子の本拠地・小田原城の包囲を完了します。(4月3日参照>>)
しかし、この小田原城は天下の名城・・・しかも、周囲の城下町は、総構え(惣郭・そうくるわ)と呼ばれる城壁で町全体が囲まれた城郭都市でした。
武田信玄も上杉謙信も落せなかったこの城の情報は、もちろん、秀吉の耳にも入っていますから、はなから相手が籠城作戦に出るであろう事、そうなれば、必ず長期戦になるであろう事は予測していました。
そこで秀吉は、小田原城を見下ろす位置にある標高255mの菅笠山(すげがさやま・太閤記では松山)に、対(つい)の城を築く事にします。
これが、有名な『石垣山一夜城』です。
菅笠山が後に石垣山と呼ばれるようになる事と、秀吉が一夜にして築いたという伝説からその名がつきました。
しかし、この石垣山城・・・後ほど、その規模をご紹介させていただきますが、とてもじゃないが一夜で築く事は不可能な本格的な城です。
この伝説のでどころは、いくつかあるのですが・・・
『関八州古戦録』では、「山の中に木組みを作り、そこに白壁に見える紙を貼った物で、遠目から見ると城に見えるだけのはりぼてだったが、北条氏はそうとは知らず、大変驚いた」と、いったような事が書かれてありますが、現実に、今も石垣が残っている以上、はりぼての城だけではなかった事がわかります。
『小田原記』にも、「林の間に陣屋や櫓(やぐら)を造った後、周囲の木々を切り払ったので、いきなり城が完成したように見え、北条軍は、秀吉は神か!と驚いた」とありますが、本当に北条は、完成するまで、ここに城が築かれている事を知らなかったのでしょうか?
『当代記』や『北条五代記』には、4月6日に築城にとりかかった事が記されています。
『当代記』は徳川の史料なので、ともかくとして『北条五代記』は、北条氏の家臣であった三浦浄心という人が記した物・・・そこに着工の日が書かれてあるというのは、どうなんでしょう?
もちろん、北条の家臣の著とは言え、書かれたのは江戸時代になってからですので、後々知りえた着工の日付を、そこに書いた可能性もありますので、これだけで、北条が石垣山城の築城を、最初から知っていたとは決めつけられませんが・・・。
ただ、5月20日付けの浅野長政の文書には、現地の報告として、「日番と夜番の二交代制で、昼夜休む事のない突貫工事が行われていて、その規模は大坂城や聚楽第にも劣らない」などという事が書かれています。
一説には、4万人の人々が動員されとも言われるこの大規模工事を、完成するまで、本当に北条が気づかないで、完成してからアッと驚いたのだとしたら、それはそれでかなりの問題のような気がしないではありません。
『当代記』『北条五代記』が、比較的信頼のおける文献である事から、今のところ、4月6日着工の話は、まず間違いないだろうと・・・また、冒頭の『家忠日記』も、感情的な事がほとんど書かれておらず、その日の天気や行動が、事細かく記されているところから、信頼のおける史料とされていて、6月26日の完成も、まず、間違いないであろうとされています。
・・・よって、石垣山城の築城は80日間というのが、現在の定説となっています。
もちろん、これでも、異常な速さです。
つまり、北条は突然現れた城に驚いたのではなく、本格的な城を80日で築いた事に驚いたのではないか?と・・・あくまで、私的意見ですが・・・。
なんせ、この頃は、中世城郭から近世城郭への移行の時期で、本格的な石垣を持つ城は、まだ、関東には無かったわけですし、この先、次々と築城されていく近世城郭の築城には、少なくとも1~2年、平均して3~4年はかかるのですから、80日というのが、いかに驚異的スピードなのかがわかります。
・・・で、肝心の石垣山城の規模ですが、明治初年の実寸記録というのをもとに想像してみると・・・
このイラストは、史料をもとにして趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません・・・数値は、一間を1.8mに換算したおおよその数値です。
現在も残る天守台の石垣が、東西36m・南北16mという事なので、やはり、こんな感じでしょうか。
ところで、この石垣山城の建物は、瓦葺であったそうで、現在も城址からは瓦が出土するとの事ですが、それに関してちょっとオモシロイ話があります。
それは、その出土した瓦の中に、「辛卯八月日」という銘が記された物があったというのです。
「辛卯の年」とは、天正十九年の事・・・しかし、以前も書かせていただいたように、氏政・氏直父子が小田原城を開城するのは、天正十八年(1590年)の7月(7月5日参照>>)です。
攻撃のために築城した対の城を、落城後も構築していたというのでしょうか?それも、一年間もです。
記録としての石垣山城は、小田原城落城後、間もなく廃城になっています・・・もちろん天正十八年のうちに・・・そして、この石垣山城以外に、ここに城を築いたという記録もありません。
私としては、一夜城の出現に北条が驚いたかどうかよりも、この瓦の銘が何を語ろうとしているのか?のほうが気になってしかたがないのですが・・・
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コメント
秀吉って、この石垣山城にしろ墨俣城にしろ…一夜城伝説を持ってるってのは、他の武将が持ってない特殊能力集団を抱えてたんでしょうかねぇ。朝鮮出兵の前線基地だった肥前名護屋城も確か短期間で造られたんじゃなかったでしょうか。どうして、秀吉は…こうも短期間に城を造れたのか気になります。他の武将で秀吉を真似して、一夜城を造った武将って居ないんですかね?僕も調べてみます。さて、話は石垣山城に戻って、城の遺蹟から小田原包囲戦終結一年を経た年号の瓦が出土したって話は、何を意味するのか興味が尽きませんね。あまりに立派な城を破却するのは偲びがたく思った家康が、関東入府後、この城に家臣を配置した記録は無いですか?こちらも一度詳しく調べてみる価値は有りそうですね。
投稿: マー君 | 2008年6月26日 (木) 09時33分
マー君さん、こんにちは~
瓦の年号は気になりますね~
一旦廃城になった城を復活させる話は聞きますが、石垣山城の跡を・・・という話は聞いた事がないですもんね・・・
どこかに、古文書が埋もれているかも・・・ですね
投稿: 茶々 | 2008年6月26日 (木) 11時25分
そうですねかなり大きな石を使っていました、それに石垣のエリート穴太衆の野面積み石垣は未だ健在で、とても立派でした。
現在技術を受け継いでいる方々がいてその方々は石の行きたいところに置いてあげるのだと言っていました、とても素敵だと思いました。
投稿: YamatoWarrior | 2014年9月 1日 (月) 23時54分
YamatoWarriorさん、こんばんは~
私も、穴太衆の技術を受け継いでおられる方々お奮闘ぶりのドキュメンタリーを見た事があります。
その技術と伝統には感激しますね~
投稿: 茶々 | 2014年9月 2日 (火) 01時14分
とても賛成できます。
投稿: 👀🎶 | 2023年5月31日 (水) 11時03分
ありがとうございます
投稿: 茶々 | 2023年6月 4日 (日) 04時12分