四民平等のはずの明治政府が華族制度を?
明治二年(1869年)6月17日、明治政府は『版籍奉還』の命令を発布し、公卿・諸侯を「華族」と称する事を布告しました。
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版籍奉還(はんせきほうかん)の「版」は各藩の領地、
籍はその領地に住む領民の戸籍という意味です。
江戸時代の藩という物は、今で言う独立国家のような物で、日本という国は、その独立国家の集合体のような物でした。
つまり、「その独立国家の領地と領民を天皇=新政府に返せ」というのが版籍奉還です。
ただし、この命令を出したからと言って、いきなり全部返されても、新政府がすべてを統治できるわけもありませんから、あくまで、建前・・・実際のところは、江戸時代に藩主だった大名が、明治政府から知藩事という名前の地方官に任命され、昔からの領地の支配を、以前と同じように治めているというのが現状でした。
ちなみに、余談ですが、この時の知藩事という役職名がついた時から、領地の事を藩と呼ぶようになります。
つまり、江戸時代には藩という呼び方は無く、時代劇のセリフでよく登場する「わが藩は・・・」とか「薩摩藩では・・・」なんて言い方は、現代人にわかりやすくするための架空の言い回しで、江戸時代の武士は、単に「わが領地は・・・」「薩摩の地では・・・」という言い方をしてたんですねぇ。
そして、この明治二年に初めて呼ばれた藩という名称は、二年後の明治四年(1871年)の『廃藩置県』で廃止され(7月14日参照>>)、府と県になりますので、この藩という呼び方は、日本の歴史上ではたった二年間だったという事になります。(ちょっと、びっくり!)
少し、脱線していまいました~話を戻します。
・・・で、この版籍奉還するにあたって、それまで藩主である大名を「諸侯」と呼んでいたのを、公卿(上層階級の公家)らとともに「華族」と称するように変えたのです。
当初は、公家と旧大名家、合わせて427家が華族となりました。
2年後の明治四年に制定された戸籍法では、士族(旧・武士)と平民(旧・農工商)とともに、華族は正式な呼称となりました。
ところで、士族の特権を奪ってまで四民平等を訴えていたはずの明治政府が華族制度を作ったのにはワケがありました。
まず最初の時点では、「天皇と皇室を守護し、国民の模範となってもらいたい」という物でした。
とにかく、海外留学でも何でもして見聞を広め、知識を吸収し、多方面でリーダー的存在となれば、一般国民も学問の大切さを知り、国民全体の教養が高まって、文明開化が進み、日本も欧米に追いつく事ができる・・・歩み始めたばかりの明治政府は、欧米に追いつく事を第一の目標にしていましたから・・・。
しかし、例の廃藩置県によって、旧・大名だった華族には、いわゆる家禄(石高に応じて貰う給料)がストップしてしまったワケで、経済状態が一発で苦しくなり、学問どころか、日々の暮らしにさえ事欠くようになっていきます。
そこで、元公家の岩倉具視らが中心となって、国立第十五銀行を造ったり、日本鉄道株式会社を設立して、その収益を華族の支援にあてたりなんかして、旧大名の華族を援助・・・華族会館も創設して、華族同士の団結を強めるよう努力しました。
この華族会館が、華族の子息たちの教育機関として設置したのが学習院です。
そんなこんなしているうちに、明治政府が華族制度を強固な物にしなければならない時がやってきます。
あの板垣退助を中心とする自由民権運動の高まりです(10月18日参照>>)。
最初は、不平不満を持った士族たちから始まった反政府運動でしたが、それが、豪農や一般農民に広がりを見せ、民間人の政治参加を主張する一大運動となってブームを巻き起こしていました。
彼らは、「一刻も早く国会を開いて、我々を政治に参加させろ」と主張します。
しかし、政府も現体制を壊したくはありません。
やがて、国会の開催に関しては、政府内でも「すぐに開催すべき」の声が出るようになり、しかたなく、明治十四年(1881年)に、政府は「十年以内に国会を開きましょう」と約束します(10月11日参照>>)。
皇帝の権限の強いドイツの国会を視察した伊藤博文は、ドイツにならって、日本の国会も上院・下院の二院制を導入し、衆議院(下院)を選挙によって代表を選ぶシステムにしようと考えました。
しかし、そうすると、今の段階で選挙すれば、敵対勢力(政党勢力)が過半数を占めるのは目に見えています。
そこで、彼が目をつけたのが華族です。
衆議院に対抗すべく、上院を貴族院と称して、皇族や華族たちの中から任命する形で議員を選び、政府に味方する勢力としたのです。
その思惑通り、貴族院で多数を占める華族議員たちは、やがて政党が力をつけるその日まで、政府の擁護にまわり続ける事になるのです。
う~~ん、なかなか道は遠いですねぇ。
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コメント
明治時代になってから初めて全国規模で造られた個人の戸籍は、幕末までの「宗門人別帳」とは一般庶民で見ると、個人の名前や親族関係等の記録が継続されていない、と聞いた事があります。本当でしょうか?
これは一般庶民が公に名乗る・使用する「苗字」がない時代とは、記録の照合ができなかったという事情でしょうか?
以前にも尋ねたかもしれないですが、戸籍とは少し違う発想ですが家の家系図(例えば菩提寺の寺院が管理するもの)には、先祖である故人の生年月日・没年月日・享年が書いてあっても、生誕地・死去地・死因が書いていない理由はなぜでしょうか?少し前から気になってます。
「生家の倉庫等に自家の家系図がある」という人は、先祖が名のある人物・身分ということになりますが、私の知人に「実家の押し入れにウチの家系図が保管されている」という人はおりません。
投稿: えびすこ | 2024年5月12日 (日) 10時25分
えびすこさん、こんばんは~
う~ん(><)
私も、よくわかりませんが、明治になって新しく整理された戸籍と、それ以前の戸籍が一致する事が稀で、同じ物と考える方が難しいのでは無いでしょうか?
個人的に先祖が誰々…とか伝えられてはいるものの、系図とかも個人で残す物であって、江戸時代と明治ではガラリと世界が変わってるるわけですので公けの物としては残ってないのでは?
お寺の過去帳なんかも、お寺が檀家を管理する物ですから、ある意味個人の物で公けの物では無いと思うのですが…
あくまで個人的にそう思うだけですが、
日本に限らず、世界中どこでも近代化される前は、戸籍や系図もお金で売買されたりしてますから、その正確さもよくわからないと思うのですが…間違ってたらすみませんm(_ _)m
投稿: 茶々 | 2024年5月13日 (月) 04時03分