大阪城・マイナー史跡~旧大阪砲兵工廠化学分析場
それは、まるで、時間が止まったような空間でした。
天守閣はいつも大勢の観光客で賑わい、
大阪城ホールには人々が集い、
四季折々の花が咲く大阪城公園の一角に、ひっそりと静かに・・・
豊臣時代の天守を模して再現された天守閣よりも、時の重さを感じる風景・・・それは、やはり、この建物の時間が、60年前の敗戦で止まっているからなのでしょうか?
それでも、当時の事を知っているかたに言わせれば「ずいぶん変わった」のだそうです。
そりゃぁ、この一角以外は、美しい公園として整備されていますから・・・
ひょっとして、時が止まって見えるのは、むしろ、その周囲の変貌によるものなのかも知れません。
以前、大阪城の不思議な話(8月18日参照>>)でも触れさせていただきましたように、豊臣家滅亡の後、徳川の物となった大坂城は、維新とともに、明治新政府の物となり、以来、太平洋戦争が終結するまで、軍の管理下に置かれました。
昭和六年(1931年)に大阪市民の寄付によって天守閣が再建され、一部が市民に開放された後も、近くに移転した軍事施設とともに、現在のビジネスパークにあたりには、東洋一と言われる砲兵工廠(こうしょう・軍需工場)がありました。
6万人とも言われる人々が、ここで小銃から戦車など、あらゆる兵器を生産していた事で、戦時中のここは、アメリカ軍の集中砲火のターゲットとなり、戦争終盤には、空襲で壊滅状態となります。
やがて、昭和二十年(1945年)8月15日、敗戦後、廃墟となったこの地・・・この地が長い眠りから覚めるのは、万国博覧会が大阪で開催された昭和四十五年(1970年)の頃。
まずは、天守閣周辺が公園として整備されはじめ、やがて90年代には、大阪ビジネスパークが形成されました。
今日、ご紹介するこの建物は、そんな大阪城周辺の変貌を、その目で見てきた生き残り・・・『旧大阪砲兵工廠化学分析場』です。
大阪城の北側に流れる寝屋川に架かる、京都への玄関口・・・京橋。
この京橋がここにある事で、ここから大阪城内へ入る入り口を「京橋口」と呼びますが、その京橋口と、寝屋川に挟まれた部分の一角に、それは建っています。
煉瓦造りの2階建て、地下1階・・・左右対称=シンメトリーのそれは、ルネッサンス風の堂々とした洋風建築で、文化財クラスの優れた建築物です。
しかし、とかく、こういった戦争の遺構という物は、歴史認識の違いによって評価が異なり、「保存か」「撤去か」で意見が別れるもの・・・
「軍国主義の遺物は撤去すべき」との声が高まった昭和五十六年(1981年)5月、この化学分析場の近くにあった旧砲兵工廠本館は、明治六年(1873年)建築の重文クラスの建築物であったにも関わらず、取り壊されてしまいました。
(現在は大阪城ホールが建っています)
その翌年の昭和五十七年、この化学分析場が、有名建築家・置塩(おしお)章の手による大正八年(1919年)の作品である事が判明します。
それでも、当時は、悪しき時代の遺構は排除しようという意見が多くありました。
向かい側には、当時の守衛詰所もそのままに・・・
しかし、結局、結論が出ないまま、今に至っているわけですが・・・
現在、各地で戦争の遺構が文化財に指定され、保存の方向に向きつつある中、大阪の戦争遺構の保存状況はあまり良いとは言えません。
この化学分析場も、今では保存の動きがあるようですが、まだ、決定段階ではありませんので、宙ぶらりんの状態・・・保存するのなら、修復して整備すべきところですが、何もしないまま廃墟のようになってしまっています。
近くには、溶鉱炉の底に残っていた鉄塊がそのまま放置され、くぼみには雨水が溜まっていました。
私個人的には、軍国主義の遺物とは言え、それも歴史の一つ・・・歴史を生で伝える証言者として、彼らを後世に残していただきたいと思うのですが・・・。
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皆さんも、今度、大阪城へ行かれたら、ちょこっと寄り道してみてください。
いつもの、大阪城公園とは少し違った印象を味わえる事でしょう。
*追記:大阪城天守閣横に残る旧第四師団司令部庁舎については2012年2月9日のページでどうぞ>>
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コメント
実は、ここに叔母が勤めておりました。、近代遺跡はなかなか保存が難しいようですね。しかし、今の大阪だと、これから保存はますます難しいかも。
投稿: 乱読おばさん | 2008年6月 8日 (日) 22時02分
乱読おばさま、こんばんは~。
>実は、ここに叔母が勤めておりました。
えぇ・・!
そうなんですか?
現在の大阪城公園と、ビジネスパークの広さを考えると、東洋一というのもうなづける広さですね。
今の大阪の経済状況を考えると、やはり、保存は難しいですかね・・・。
投稿: 茶々 | 2008年6月 8日 (日) 23時53分
以前、大阪城に行った時にこの建物はなんなんだろうと思いながらもやっと大阪城のこれた嬉しさで素通りしたしまいました。
同じ遺構なのにこうも対応が違うんですね。
投稿: you | 2014年9月 8日 (月) 11時55分
youさん、こんにちは~
初めての大阪城で、この建物にお気づきになるとは!スゴイですね~
初めての場合、大抵、記憶にも残らない事が多いです。
それだけ、ひっそりと建ってるわけですが、私としては、やはり、キレイに残していただきたいて、なんなら、中で近現代の大阪城に関する展示などしていただき、第2第3の博物館として保存してほしいです。
投稿: 茶々 | 2014年9月 8日 (月) 14時29分
大阪砲兵工廠 廠友会発行絵葉書の発行時期を調べております。写真に溶鉄池が映っており、その撮影されたよりは以前の溶鉄池となり、調べとります。本館のカラー写真は大阪市図書館に本館調査報告書がありカラー写真、姿図、実測寸法図が載っています。溶鉄池の写真の廠友会発行絵葉書はjm3gvh検索「鳥瞰図に水道アンテナ低山を見る」のhpにて掲載中です。「水道鳥瞰図絵葉書博物館第2回改訂版」のcdは、大阪市図書館、大阪府図書館、枚方市図書館、美濃加茂市図書館、広島市図書館、天守閣、パークセンター、ピースセンターに寄贈しました。
投稿: jm3gvh | 2015年5月26日 (火) 12時21分
砲兵工廠の写真は、廠友会誌12冊(昭和3年~昭和14年 5号欠)にもあります。大阪市中央図書館で保管されております。5号に絵絵葉書について書かれていないか探しております。5号保管図書館等ご存知の方はお知らせを待ちます。
投稿: jm3gvh | 2015年5月26日 (火) 12時27分
jm3gvhさん、こんばんは~
ここは、私=茶々の個人ブログのコメント欄ですので、「探しております」的な、多くの方に呼び掛ける内容の書き込みは、歴史好きが集まる掲示板などのSNSでされる方が、沢山の方の目に触れると思いますよ。
お探しの物が見つかると良いですね。
投稿: 茶々 | 2015年5月26日 (火) 18時56分