海道一の大親分・清水次郎長の知られざる後半生
明治二十六年(1893年)6月12日、海道一の大親分、ご存知!清水次郎長こと、山本長五郎が74歳でこの世を去りました。
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小さい頃、時代劇で見た頃のイメージだと、「江戸も真っ只中のお話なのかな?」と思っていましたが、意外にも幕末から明治の人だったんですね~
しかも、若い頃、あれだけ大暴れしていたワリには、奥さんや大勢の子分に囲まれての穏やかな最期・・・静かに畳の上でお亡くなりになったワケですから・・・。
・・・というのも、時代劇では、任侠の世界に生きる次郎長一家の親分としての次郎長さんばかりが描かれますが、晩年は、やくざな世界から足を洗い、実業家として社会事業に貢献するといった、まっとうな余生を送った人だったからなのです。
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清水の次郎長こと山本長五郎は、文政三年(1820年)1月1日に、清水港の船頭頭・三衛門の次男として生まれ、後に、母方の叔父にあたる山本次郎八の養子となります。
次郎長という呼び名は、この養父の次郎八さんからきています。
つまり、「次郎八さんとこの長五郎」というのを短縮して、通称・次郎長という事です。
この次郎八さんが、甲田屋という米屋を営んでいて、その後継ぎとして養子に迎えられた次郎長でしたが、これが、子供の頃から、手のつけられない暴れん坊・・・
読み書きを習わせようと寺子屋へ通わせれば同級生とケンカをして追い出され、ちょっとは礼儀を学ばせようとお寺へ奉公に出せば、言う事を聞かずに、またまた追い出され・・・店の金を持ち出しちゃぁ、バクチに女につぎ込んでの繰り返し・・・。
そんな次郎長も、さすがに養父が亡くなった時には、「これではいかん!」とばかりに反省し、マジメに商売に打ち込むようになります。
そんな矢先の次郎長が20歳の時・・・
たまたま、清水を通りがかった旅の僧が、次郎長の顔を見るなり・・・
「死相が出ておる・・・あと五年の命じゃぁ~」
・・・次郎長さんの時代劇は、大抵ここから始まります。
この通りすがりの僧の無責任?とも言える一言で、すべてが元の木阿弥・・・。
「どうせ五年の命なら、思う存分、やりたい事をやろう!」と、またまたバクチと女に明け暮れる生活に逆戻りです。
そんなこんなの23歳の時、賭場でイカサマをした、しないの口論となり、人二人を斬って、そのまま逃亡・・・清水から姿を消します。
ほとぼりが冷めた5年後、清水に戻った次郎長は、江尻の親分の妹・お蝶と結婚・・・この頃には、5年間の逃亡生活でつちかったやくざな度胸にほれ込んだ子分も何人かでき、清水一家のような物が生まれはじめていたのですが、またまた賭場でモメて人を斬り、逃亡の旅に出るのです。
今度は、ちょっと長い12年・・・次郎長も40歳になっていたこの時、清水に残していたお蝶が病気で亡くなってしまいます。
お蝶病死の知らせに、慌てて清水へ帰る途中、彼を捕まえようとした十手持ちの保下田(ほげた)の久六を斬りました。
その久六を斬った刀を、次郎長の名代で、四国の金毘羅さんに奉納に行くのが森の石松・・・あの浪曲の「寿司食いねぇ」のくだりでの名場面です。
無事に、刀を奉納して帰る途中、江州の親分から、お蝶さんの香典として渡された25両の大金・・・この大金が石松の命取りとなります。
浜松まで戻ってきて、都田の吉兵衛の賭場に出かけた石松・・・石松が大金を持っている事を知った吉兵衛は、その金を奪って、石松を殺してしまうのです。
もちろん、次郎長親分はすぐに報復・・・吉兵衛を斬ります。
ちょうどその頃、以前から敵対関係にあった黒駒の勝蔵との関係が悪化し、慶応二年(1866年)、有名な伊勢荒神山の抗争へと発展していくのです。
数百人規模の大合戦となったこの抗争で、次郎長は吉良の仁吉、法印大五郎を失いますが、抗争には何とか勝利・・・一気にに名を上げ、まさに海道一の大親分となったのです。
しかし、時は幕末・・・明治政府が誕生するとともに、次郎長も48歳・・・大きな転換期がやってきます。
慶応四年(明治元年・1868年)8月、榎本武揚(えのもとたけあき)が、幕府の軍艦を率いて北へ向かう途中(8月19日参照>>)、台風に遭って咸臨丸が流され、清水の港に非難してくるのですが、それを知った新政府軍が、軍艦3隻で猛攻撃を仕掛け、咸臨丸の乗組員は全員死亡してしまいます。
勝利した新政府軍は、幕府軍の兵士の死体を清水港に放置したまま、咸臨丸だけを曳航して去って行ってしまいました。
鳥羽伏見の戦い以来、賊軍となってしまった幕府軍・・・そんな幕府軍の死体を、次郎長は、子分を総動員して片付けにかかるのです。
当時、静岡県権大参事(ごんだいさんじ)を務めていた山岡鉄舟は、その話を聞いて、次郎長の取調べを行います。
なんせ、賊軍=罪人なわけですから・・・。
すると、次郎長は「死んだら皆、仏様・・・官軍も賊軍も俺らには関係ねぇ!」とキッパリ!
この言葉に感激した鉄舟は、以来、次郎長と親しく接するようになり、新田開発や私塾の建設、造船などの様々な事業を彼に勧めました。
中には、失敗もありましたが、それらの事業は清水港の発展につながり、次郎長は大きく社会貢献する事となります。
今では、名物となったお茶も、この時に勧められた事業の一つだとも・・・。
ところが、次郎長・65歳の明治十七年(1884年)、大規模な博徒狩りに引っかかり、逮捕されてしまいます。
しかし、翌年の台風で、次郎長のいた監獄が倒壊して大怪我をしてしまった事をきっかけに(ウラでは鉄舟の働きかけもあったようです)釈放され、すでにやくざな世界からキッパリ足を洗ったその後は、船宿を経営するのですが、これが海軍の宿として利用され、大いに繁盛します。
あの「杉野はいずこ」で有名な広瀬中佐(3月27日参照>>)とも友人関係にあったようで、あの斬りに斬りまくった前半生からは想像もできない穏やかな晩年を送られたようです。
ところで、次郎長はその生涯の中で、三度結婚しているのですが、2人めの奥さんの事も、3人めの奥さんの事も「お蝶」と呼んでいたそうで、人を斬っては逃げまくって、迷惑をかけてばかりだった最初のお蝶さんに「すまない」と思う気持ちが強かったようですね。
そんな次郎長さんは、明治二十六年(1893年)6月12日、3代目・お蝶さんに看取られながら、初代・お蝶さんのもとへ、静かに旅立ったのです。
葬儀に参列した人は数千人・・・「侠客次郎長之墓」と書かれた墓碑の文字は、あの榎本武揚の筆によるものだと言われています。
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