戦国の幕を開けた男~細川政元・暗殺
永正四年(1507年)6月23日、管領・細川政元が暗殺されました。
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細川政元(まさもと)は、あの応仁の乱(5月20日山椒>>)での東軍の大将・細川勝元の息子です。
応仁の乱が、日本史上屈指の有名な乱で、その有名な乱の東軍の大将である事で、これまた勝元さんも大変な有名人・・・しかし、息子の政元さんは・・・というと、確かにお父さんほど有名ではありません。
たぶん、歴史がお好きではない方にとっては、あまり、聞いた事の無いお名前かも・・・何年か前の大河ドラマ『花の乱』でも、あまり目立っていなかったような・・・。
しかし、有名な父を持ったボンクラ息子か?と言えば、そうではなく、これが、なかなかのキレ者・・・いや、ひょっとしたらお父さんの上をいく、知謀に溢れた乱世の申し子・・・歴史ファンにとっては、かなり注目度の高い人物なのです。
はっきりとした境目のない、漠然とした言い回しの戦国時代という時代・・・何を以って戦国の幕開けとするか?という点では、上記の応仁の乱、あるいは以前書かせていただいた北条早雲の『伊豆討ち入り』(10月11日参照>>)とともに、この細川政元のクーデター・『明応の政変』をあげる歴史ファンも少なくありません。
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文明五年(1473年)5月11日、病床にいた父・勝元は、己の死期が近い事を悟り、息子・政元(聡明丸)をそばに呼び、皆の前で・・・
「この政元あらば、細川家は安泰だ」
と言って息をひきとったのだとか・・・。
政元、わずか8歳・・・その時から、彼は「半将軍」「観音の申し子」「八幡太郎の生まれ変わり」と呼ばれ、細川家の当主となるのです。
そして、翌、文明六年(1474年)4月、勝元と同じく応仁の乱の途中で亡くなった西軍・山名宗全(3月18日参照>>)の後を継いでいた山名政豊との間で講和を成立させ、10年に及ぶ応仁の乱を終結させました。
しかし、以前も応仁の乱のページで書かせていただいたように、応仁の乱は、それぞれの家庭の家督争いの集合体のような大乱でしたから、東軍と西軍の代表が講和を成立させたからと言って、それぞれの後継者争いが解決するわけでもなく・・・
もともと応仁の乱の発端となった『御霊合戦』(1月17日参照>>)で、畠山氏の後継者争いをしていた畠山政長と畠山義就なんかも、義就が亡くなって息子の畠山義豊がその後を継いでも、やはり争いは収まっていなかったのです。
やがて、明応二年(1493年)、政長は、長年の争いを決着させるべく、時の室町幕府将軍・第10代足利義稙(よしたね)に応援を要請します。
要請を受けた義植は、政長とともに義豊を討つべく、河内(大阪)へと出陣しますが、実は、これが、政元の思う壷・・・
政元は水面下で、大和(奈良)や丹後(京都)といった畿内の国人はもちろん、遠くは出雲(島根県)や美濃(岐阜県)の守護、そして、ともに応仁の乱を終結させた山名政豊までを自分の味方につけ、この時を待っていたのです。
そう・・・クーデターの決行です(明応の政変=4月22日参照>>) 。
政元は、政長を攻めて自刃に追い込み、将軍・義稙を追放し、仏門に入っていた元堀越公方・足利政知(まさとも)の次男を、第11代将軍・足利義高(後の義澄)としたのです。
もちろん、この将軍は、政元の意のままになるあやつり人形的将軍です。
北条早雲が公方を倒し、事実上関東を支配して戦国の幕を開けたのだとしたら、政元は、将軍の補佐役である管領が、上司であるはずの将軍を交代させ、事実上実権を握るという形で戦国の幕を開けたのです。
ところで、この政元という人は、知謀や策略だけでなく、その性格にも興味の湧く人ではあります。
戦記物などでは、「魔法を使って隣国を動かした」などとも言われますが、さすがに、それは事実ではないでしょうが、政元自身が魔法を信じ、空に浮くための修行をしていたのは本当のようです。
そして、その恐ろしいまでの知謀は、自分自身でコントロールできなくなるほどで、いきなり仏門に入ると言って家出し、家臣に連れ戻されたりもしています。
また、女性を、一切、近づけなかったのは、戦国武将にありがちな男色による物なのでしょうが、ほとんどの戦国武将の場合、正室もいて側室もいて、家督を譲る息子もいて、その後にステータスとしての美少年を側に置く・・・といった感じですが、政元の場合は、はなから男一本、まったく女性には手をつけていません。
しかし、これが、彼の命取りとなります。
女を寄せ付けない=実子ができないわけで、細川家を存続させるためには、当然、養子を迎えなければなりません。
政元は、関白九条政基(まさもと)の末の子供を養子にもらい、自らが幼い頃名乗った細川家督世襲の幼名・聡明丸と名乗らせました・・・この子が後の細川澄之(すみゆき)なのですが、
しかしその後、政元は、二人目の養子を迎え入れる事になってしまいます。
(その理由は、おそらく方針転換による物かと…くわしくは8月1日のページ参照>>)
今度は、血縁関係にある阿波(徳島県)細川家の義春の子供・六郎を養子として細川澄元(すみもと)と名乗らせました。
もう、おわかりですよね。
後継者の候補が二人になると、当然のように家臣団は二つに分かれ、争いが起こる事になるのです。
やがて永正三年(1504年)、養子になったとは言え、未だ阿波にいたままだった澄元が、阿波細川家の実力者・三好之長(ゆきなが)とともに京に入ると、「そのまま、すんなり細川家に入れてはなるか!」とばかりに、澄之派の家臣が動き始め、畿内にいる澄元派の守護大名たちとの間に、内紛が勃発するのです(8月24日参照>>)。
そして、運命の永正四年(1507年)6月23日、内紛のドサクサに乗じて、阿波の之長の力が増大するのを恐れた澄之側の家臣・香西元長(こうざいもとなが・山城国守護代)らによって、政元は風呂に入っているところを襲われ、その命を落すのです。
享年・42歳でした。
大名が将軍を擁立するという下克上を自らの手で成し遂げ、戦国の幕を開けた男は、家臣による暗殺という下克上で、その舞台から引きずり下ろされる事となったのです。
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コメント
最近大河ドラマ「花の乱」のDVDを観て細川政元に興味を持ちました。ドラマでは明応の政変は少ししか描かれず、残念でした。
将軍を更迭させ天下人になったのに、最後は自分も家臣に殺されるんですね。意外な結末に驚きました!
ドラマでは今井雅之が演じていましたが女を
寄せ付けないイメージが合っていたように思います。
でも9代将軍・足利義尚(松岡昌宏)と同じ年齢位にはとても見えなかったですね(笑)
投稿: | 2011年10月14日 (金) 14時04分
こんばんは~
確か、「花の乱」は日野富子がヒロインでしたね。
山城の国一揆は描かれていたと記憶してますが、政元はあまりたくさんは描かれていなかったような…
この方を主役にしても、充分見ごたえのあるドラマができるような気がします。
投稿: 茶々 | 2011年10月14日 (金) 19時23分