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2008年7月24日 (木)

信長とともに30年~佐久間信盛の悲惨な末路

 

天正九年(1581年)7月24日、石山本願寺戦での責任を問われ、主君の織田信長に追放された佐久間信盛が、大和十津川で湯治中に病死しました。

・・・・・・・・・・

佐久間信盛は、織田信長の父・信秀の時代からの家臣でした。

その信秀から、幼い信長の重臣としてつけられ、その素行の悪さから「うつけ」と呼ばれて後継者には弟・信行のほうがふさわしいと囁かれていた信長の少年時代にも、一貫して味方になってくれた人です。

その後も、信長に従って、織田家が参戦する合戦にはすべて出陣し、伊勢長島の一向一揆戦(5月16日参照>>)姉川の合戦(6月28日参照>>)にも参戦・・・織田家家臣の長老として活躍していました。

しかし、元亀三年(1572年)、同盟関係にあった徳川家康の救援のために向かった三方ヶ原の戦い(12月22日参照>>)では、ともに派遣された平手汎秀(ひろひで)が討死する中(12月23日参照>>)武田信玄の軍勢の数の多さと、その勢いから、「とても勝ち目はない」と判断して、信盛はほとんど戦うことなく撤退するのですが、これが信長から見れば、仲間を見捨てて退却した臆病者に映ったようで、このあたりから、どうも、信盛に対する信長の評価が低下し始めます。

さらに、翌年、朝倉義景を攻めた時(8月20日参照>>)には、敗走する義景を追撃しなかった事を追求した信長に、何だかんだと言い訳をした事も気に入らなかったようです。

そして、最終的に訪れた決定打が、元亀元年(1570年)から天正八年(1580年)と、十年間に及んだ石山本願寺との戦い(8月2日参照>>)でした。

途中から、海運に強い毛利が本願寺の味方につき、対する信長の鉄甲船が登場して相まみえる事で、何かと海戦(11月16日参照>>)が有名な石山本願寺戦ですが、最も激戦だったのは、天正四年(1576年)に城戸口でぶつかった天王寺砦(とりで)の攻防戦(5月3日参照>>)でした。

この時、攻める信長は、北西の野田、北東の守口、南の天王寺と石山本願寺を囲むように砦を築き、(ばん)直正明智光秀細川藤孝(幽斎)荒木村重といった畿内武将が率いる大軍を送り込みました。

しかし、本願寺の激しい抵抗により、この時の軍のリーダーであった直正を失い、一時は天王寺砦をも囲まれる状態となってしまいますが、味方の不利を聞いた信長自らが3千の軍を率いて応援に駆けつけ、再び本願寺城下まで後退させる事に成功しました。

そして、力攻めが困難であると判断した信長は、その後、亡き直正に変わって信盛をリーダーにすえて天王寺砦を拠点として与え、畿内7ヶ国の軍をつけ、長期を視野に入れた兵糧攻め作戦に方針を転換します。

しかし、それから五年・・・
いくら籠城戦とは言え、その間に一戦たりとも交えない信盛に、「長期にもほどがある!」と、しびれを切らした信長は、自らが朝廷に働きかけ、天皇の仲介によって本願寺に和睦を持ちかけて十年の合戦に終止符を打ったのです。

Odanobunaga400a ・・・で、とうとう信長さん、怒り爆発です。

信盛とその息子・信栄(のぶひで)に、19か条に及ぶ『折檻状(せっかんじょう)なる書状を突きつけたのです。

その19ヶ条とは・・・

  • おまえら、5年間いったい何やっとってん!て、皆、思とるぞ
  • ひょっとして本願寺にビビッとったんか?ほんで、戦いもせんと守りだけ固めて・・・そしたら、いずれ俺にビビッた本願寺が引き下がると思とったんちゃうんかい!武士やったら、チャンス見つけて戦えや
  • その点、明智君や羽柴君はスゴイ!・・・池田(恒興)君なんかも、あんな下っ端やのに頑張っとんねんぞ
  • それに触発された柴田君なんか、自分から進んで領地増やしよったで
  • 力ないんやったら、頭を使て作戦練ったらえぇもんを、この5年間、そんな話も聞いた事ないぞ
  • ほんで、お前ら、いっつも言い訳ばっかりやんけ
  • お前には、めっちゃようけの軍隊つけたってんねんから、何とかなったんちゃうんかい
  • お前にチクられて死んだ水野(信元)君の領地を、お前にやったのに、家臣も増やさんと、領地をそのまま自分一人のモンにしてからに・・・
  • 山崎の土地かって、自分一人のモンにしてるやろ。
  • 部下の給料上げたったり、人雇たりせんと、自分のモンにばっかりして貯金ばっかりしてんのんは世界に広まっていくやろな。
  • このまえ、朝倉をやったった時も、俺が注意したら、文句言い返してきやがって、せやのに、文句言うわりには、まだ、俺んとこにおるんやからなぁ・・・おかしいやろ。
  • 息子の悪いところは、ここには書ききれんわ。
  • だいだい言わしてもらうとな・・・欲深やろ、気難しいやろ、ほんで部下を見る目ないし・・・そんな、ええかげんな事しとるから、こういう事になってまうんや
  • 自分の部下を使わんと他人まかせにして、領地はほったらかしやし・・・
  • お前らが自分勝手やさかいに、まわりはイエスマンばっかりになってしもて、誰も注意するもんはおらんようになってしもとるがな
  • お前、俺の代になってから30年働いとるけど、「スゴイなぁ」っちゅー活躍が一回もないやんか。
  • 俺の生涯の中で、負けたんはあの三方ヶ原だけや!そら勝負には、勝ち負けはつきもんや、勝つ時もあれば負ける時もある。
    けどな、家康の手前もあるしな、部下がボロボロなってたら、「あぁ、戦うてくれはったんや」て、思てもらえるかも知れんけど、部下は無傷やわ、平手君は見殺しにするわ・・・それで、平気な顔して帰ってくるとこが信じられへんわ
  • こうなったら、どっかの敵をやっつけて汚名を晴らして戻ってくるか、討死するしかないなぁ。
  • 親子で高野山へでも行って来い!

(お詫び:大阪弁しかしゃべれませんので、原文を自分で訳してしゃべり言葉にすると大阪弁になってしまします…悪意はありません)
以上・・・信長さん、怒ってはります。

結局、天正八年(1580年)8月12日、信盛・信栄親子は、高野山へ追放となり、さらに、その後、熊野の山奥に追われる事となりました。

もう、その時には、彼に付き添う家臣はたった一人だったとか・・・。

そして、翌年の天正九年(1581年)7月24日大和(奈良県)十津川で湯治中に、信盛は帰らぬ人となったのです・・・享年55歳。

信長さんに、散々悪口を書かれ、とてつもない愚将のようなイメージの信盛さん・・・きっと彼には彼の言い分がある事でしょうが、悲しいかな、負け組の主張は歴史という波に呑み込まれてしまうのが世の常・・・

愛し合った恋人同士が別れる時は・・・
「アンタといてて、楽しいことなんか、いっぺんもなかったわ!」
なんて、捨てゼリフを残し、お互いが振り向きもせず去っていったりするものですが、どうしてどうして、心落ち着けて振り返ってみれば、きっと、二人でいて楽しかった事はいっぱいあったはずです。

いつか、信盛さんの汚名を晴らせる日がくる事を祈って・・・
 .

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戦国・安土~信長の時代」カテゴリの記事

コメント

佐久間くんさぁ…明智くん・羽柴くん・滝川くんなんて途中採用組が手柄を立ててく中で、林くんと並んで織田家の重臣筆頭クラスのアンタが、ようけの軍勢を付けてもうて、海の方は信長はんが九鬼水軍に鉄甲船なるもん作らせて毛利水軍が手も出せんようにしとってくれとるんやで、どないぞ頑張って手柄立てなアカンわなぁ。ほらぁアンタが悪いわ!リストラされたって、しゃあ無いで。茶々さんを真似て関西弁でコメント書いてみました。

投稿: | 2008年7月24日 (木) 10時09分

コメントありがとうございます。

私は、新聞を読んでもイントネーションが大阪弁になってしまうのです。

以前、仕事の関係で、10年間富山に住んでいましたが、まったく言葉は変りませんでした。

悪意はありません・・・しゃべり言葉に訳すと皆、大阪弁になってしまいます~

投稿: 茶々 | 2008年7月24日 (木) 11時35分

信盛は知りませんませんでした。
信秀パパの家臣でしたね。
信長のことを思い出しました・・・・・・濃姫のことを思い出してしまった。
この前、濃姫と信長の奥様たちを猫いちゃったんです。7月11日と18日記事です。

投稿: sisi | 2008年7月24日 (木) 18時24分

sisiさん、こんばんは~

>濃姫と信長の奥様たち・・・

ホントは仲良くなさそうな人たちが、仲良く海水浴してるところがスゴイ・・・っす

投稿: 茶々 | 2008年7月24日 (木) 18時52分

朝のコメント…名前を入れ忘れてました。自分の関西弁も本当の関西の方が見たら間違いだらけでしょうね

投稿: マー君 | 2008年7月24日 (木) 19時59分

マー君さん、こんばんは~

朝のコメントはマー君さんでしたか・・・

初めてのかたかと思って、大阪弁に悪意がない事をお伝えしてしまいました~(#^^#)

投稿: 茶々 | 2008年7月25日 (金) 00時39分

折檻状現代語訳・・・じゃなくて関西弁訳。
めっちゃわかりやすかった!

こちらも折に触れて博多弁でいってみようと思います(笑)

投稿: よっすぃー | 2011年2月10日 (木) 02時30分

よっすぃーさん、こんにちは~

リアルにしゃべってる雰囲気を出そうと思うと大阪弁になってしまうのです(。>0<。)

信長の場合は名古屋弁で書けるとよりリアルなんですが…

投稿: 茶々 | 2011年2月10日 (木) 11時16分

大阪弁で信長の文章を訳をすると面白いですね。さすがです。かなり、怖い感じも伝わりつつ(だって標準語や東京の言葉で言っても迫力ないですよ、ただ冷たく感じるかも)面白いところもありですね。こうして読むと大阪弁って意外と否定形の否定も多いなあと思いました。違っていたらごめんなさい。いつも楽しく読んませていただいてます。

投稿: minoru | 2011年6月30日 (木) 16時11分

minoruさん、こんばんは~

>否定形の否定も多い

う~~ん???
自分でもよくわかりません(゚ー゚;

たぶん、それがわかったら、標準語をちゃんとしゃべれるのだと思います。

投稿: 茶々 | 2011年6月30日 (木) 18時49分

茶々様、こんばんは。

名古屋弁でやってみましょうか(笑)

ただ、名古屋弁は滅びかかっていて、うちの職場は標準語です。
ルールではなく、自然にそうなってます。

ある意味、書き言葉にすら関西弁を使う関西人の誇りはすごいと思います。

本題の佐久間信盛ですけど、折檻状のラスト二番目で敗者復活の道を残してるので、信長は家来思いだったと思いますよ。

投稿: エアバスA381 | 2014年6月17日 (火) 23時46分

エアバスA381さん、こんばんは~

そうですね。
明智秀満さんのページのコメントにも書かせていただきましたが、私としては信長さんは、なかなかの家来思いだったと思ってます。

おっしゃる通り、「汚名を晴らして戻って来い」と言ってるような気がします。
あの前田利家は、ちゃんと手柄たてて戻って来ましたからね。

投稿: 茶々 | 2014年6月18日 (水) 00時41分

私は、この人が餓死したと云う説を聞いたことがあります。

投稿: クオ・ヴァディス | 2015年5月16日 (土) 15時57分

クオ・ヴァディスさん、こんにちは~

悲惨な最期だったんでしょうね。

投稿: 茶々 | 2015年5月16日 (土) 16時39分

佐久間信盛が、織田信長の命令によって追放されたのは、私としては、悲惨としか思えません。なぜなら、信盛は、信長に対する忠誠心は高かったような気がするからです。大した働きもないと見なされて、追放された信盛の姿は、まさしくリストラでしょう。しかし、信盛にしてみれば、無念の思いを抱えたのは、言うまでもありませんし、信長の能力主義の犠牲者だったのではないでしょうか。

投稿: トト | 2016年1月23日 (土) 10時06分

トトさん、こんばんは~

そうですね。
力量があれば、新参者でも身分が低くても登用するという事は、その逆もあるわけで…

信長には何か思う所があったのかも知れませんね。

投稿: 茶々 | 2016年1月24日 (日) 01時26分

佐久間信盛のことで思い出したのですが、信盛と同様に、織田信長の命令で追放された武将に、林秀貞という方がいまして、秀貞の場合は、柴田勝家と組んだ上で、信長の弟の織田信行を、新しい織田家の当主にしようとしたという理由で、理不尽な追放処分を受けました。もちろん、勝家の場合は、百戦錬磨の武将として数々の功績を残してますから、引き続き重用されました。そう考えると、秀貞も信盛のように、信長の能力主義の犠牲者だったのではないかと思います。ただし、秀貞の場合は、織田家の家老だったので、戦場で功績をあげることができなかった人物であることを、付け加えておきます。

投稿: トト | 2016年1月24日 (日) 18時10分

トトさん、こんばんは~

実現できなかったものの、信長は戦国武将で初めて天下統一に手が届きそうになった人ですから、家臣には文治に長けた人も必要だったと思いますが、その人選については、ご本人のみぞ知る…といったところかも知れませんね。

投稿: 茶々 | 2016年1月25日 (月) 02時08分

おばんです。

私も此処の他に違うハンネですが、出入りしてるblogが一つ二つありまして、やはり大阪弁でカキコしとるんですワ。私の方の気分みたいなのを伝えるのに良いか?と思ったのと、識別の為です。此処と違い変なのが時々荒らしに来て偽物も出るんですがやはり私らみたいなネイティブなんと比べると、下手くそで直ぐ解るんでね。

で、佐久間さんやけどトトさんの仰る通り忠誠心は一点の陰りも無かったでしょうね…更に悲しいのは高野山だっけかな?で、生活を扶けて貰った時に
「織田家に帰れたら必ずお礼はするからね」
て言ってたって事なんですよね…何処かに再仕官出来たらじゃなく
「織田家に帰れたら」
てのがね…
「上様も何れ解ってくれる」
っていう気持ちやったんやろね。せやから私も会社なんかチィーッとも信用はしとらんのよwww後、真面目な話すると佐久間追放が明智の乱を呼び起こしたて思うんですワ。

投稿: 高槻晋作 | 2016年1月28日 (木) 01時11分

おばんです。

私も此処の他に違うハンネですが、出入りしてるblogが一つ二つありまして、やはり大阪弁でカキコしとるんですワ。私の方の気分みたいなのを伝えるのに良いか?と思ったのと、識別の為です。此処と違い変なのが時々荒らしに来て偽物も出るんですがやはり私らみたいなネイティブなんと比べると、下手くそで直ぐ解るんでね。

で、佐久間さんやけどトトさんの仰る通り忠誠心は一点の陰りも無かったでしょうね…更に悲しいのは高野山だっけかな?で、生活を扶けて貰った時に
「織田家に帰れたら必ずお礼はするからね」
て言ってたって事なんですよね…何処かに再仕官出来たらじゃなく
「織田家に帰れたら」
てのがね…
「上様も何れ解ってくれる」
っていう気持ちやったんやろね。せやから私も会社なんかチィーッとも信用はしとらんのよwww後、真面目な話すると佐久間追放が明智の乱を呼び起こしたて思うんですワ。

投稿: 高槻晋作 | 2016年1月28日 (木) 01時11分

ごめんなさい。大切な事でもないのに二重送信してしまったみたいです。堪忍しとくれやす。

投稿: 高槻晋作 | 2016年1月28日 (木) 01時44分

高槻晋作さん、こんばんは~

信長さんの折檻状の18番目には「手柄をたてれば戻って来れる」的な事も書いてありますが、実際にはどうだったんでしょうね~

心のすれ違いというか…タイミングが悪かったんでしょうかねぇ

投稿: 茶々 | 2016年1月28日 (木) 03時48分

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