六千人のユダヤ人を救った杉原千畝
昭和六十一年(1986年)7月31日、元外交官・杉原千畝が86歳で、この世を去りました。
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何年か前に放送された反町隆史さん主演のドラマ・日本のシンドラー杉原千畝物語・六千人の命のビザがかなり評判を呼んだので、ご存知のかたも多いでしょうが、その杉原千畝(すぎはらちうね)さんです。
外交官だった千畝が、リトアニアの当時の首都・カウナスの日本領事館に、領事代理として赴任したのは、昭和十四年(1939年)11月の事でした。
それは、つい2ヶ月ほど前に、ヒットラー率いるナチス・ドイツがポーランドに進攻し、第二次世界大戦が勃発したばかりの頃・・・。
ご存知のように、ヒットラーはヨーロッパの各地で、ユダヤ人への迫害を行っていましたから、ドイツに占領されたポーランドからも、多くのユダヤ人がリトアニアへと逃亡してきていました。
彼らは、迫害を逃れて、リトアニアから、さらにそのまた先の外国へと逃亡するため、リトアニアにある各国の領事館から、ビザを取得しようとしていましたが、そのリトアニア自体も、ソ連と併合される事になり、各国の領事館や大使館は、まもなく閉鎖される運命にありました。
ビザとは、外国に入国する時に、その国の領事などから検査を受け、入国できるよう証明してもらう事・・・領事館が閉鎖されてしまっては、ビザは、もう、貰えません。
昭和十五年(1940年)7月27日の事・・・領事館で執務中だった千畝が、何やら外の騒がしさに気づき、ふと、窓の外を見ると、そこには、ものすごい数の人々々・・・。
それは、各国の領事館が閉鎖する中、未だ執務中の日本領事館へ行けばビザが貰えるとの噂を聞きつけて集まって来たユダヤ人難民たちです。
彼らは口々に叫びます。
「どうか、ビザを発給してください!」
その中には、小さな子供も、年老いた老人もいます。
彼らの、必死のまなざしを目の当たりにした千畝は、
「何とかしてあげたい」
と思うのですが、事はそう簡単ではありません。
なんせ、その頃は、日本はドイツとともに、イタリアとの日独伊三国同盟を結んでいましたから、むしろ、ドイツからは、再三、「反ユダヤ主義」に協力するよう要請を受けていたのです。
さすがに、日本はユダヤ人への迫害に協力する事は避け、その件に関しては、中立の立場に立ってはいましたが、無条件でのビザ発行は許されておらず、その条件というのも、ユダヤ人である彼らには、大変ハードルの高いものでした。
千畝は外交官・・・国の方針にそむくわけにはいきません。
加えて、ソ連からも、再三再四、「早く領事館を閉鎖して退去せよ」と要請されます。
しかし、ユダヤ人たちの悲痛な叫びが・・・
訴えかけるその目が・・・
彼の頭から離れません。
悩みに悩みぬいた末、千畝は決断します。
8月1日の早朝・・・未だ領事館の周囲を取り囲むユダヤ人たちの前に姿を見せた彼は、大きな声で叫びます。
「ただ今から、あなた方に、日本の通過ビザを発行します!」
一斉に、歓喜の声があがりました。
人々は抱き合い、涙しながら、それでいて暴徒と化す事はなく、順番に彼の指示に従います。
しかし、ビザは一枚一枚手書きで書かなければなりませんから、とてつもなく大変な作業です。
その日から、領事館を閉鎖してベルリンに旅立つ日までの28日間、昼食抜きで、彼はビザを書き続けたのです。
それは、ベルリン行きのギリギリ・・・列車のホームでまでも行われました。
ドラマでは、ユダヤ人青年が、走り出した列車を追いかけ、反町さんが窓越しにビザを書いて手渡す・・・とても印象深いシーンでしたね。
急を要する出来事で、多くのビザの発給記録が残っていないため、正確な数はわかりませんが、奥さんの幸子さんによれば、この時、ビザを貰って国外へ脱出したユダヤ人の数は6000人に達っしていたそうです。
一方、カウナスに残ったユダヤ人は、すべて殺されたとも言われています。
まさに、「命のビザ」です。
その後、ヨーロッパ各地を転々とした後、終戦後に帰国した千畝は、外務省を解雇されます。
表向きは、事業の縮小に伴う解雇だという事ですが、そこには、やはり、国の方針に反した例の件が関わっている事は、容易に想像できます。
その後、その語学力を生かして貿易商や翻訳の仕事をしていましたが、やがて昭和六十年(1985年)1月、千畝はイスラエル政府から、イスラエル建国に尽力した外国人に与えられる『諸国民の中の正義の人賞』なる賞を授与されます。
もちろん、あの時、大勢のユダヤ人を助けた功績によるものですが、この賞が日本人に与えられるのは初めての事・・・
多くの日本人は、この時初めて、杉原千畝という勇気ある元・外交官の存在を知ったのです。
翌・昭和六十一年(1986年)7月31日、彼は静かに息をひきとりました。
享年86歳・・・
「私のした事は、外交官としては間違っていたかも知れないが、自分を頼ってくれた多くの人を見殺しにする事はできなかった」
ご本人の存命中に、汚名が名誉へと変わった事が、せめてもの救いでした。
勇気ある決断、迅速な行動・・・イザとなると、なかなか、できない物です。
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