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2008年7月21日 (月)

兄は東に父・西に~真田親子・犬伏の別れ

 

慶長五年(1600年)7月21日、石田三成からの密書を受け取った真田昌幸信幸(信之)幸村(信繁)親子が、下野(しもつけ・栃木県)犬伏にて議論の結果、東西に分かれる事になりました・・・世に言う『犬伏の別れ』です。

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豊臣秀吉亡き後、豊臣家の持ち城である伏見城に居座って、重要事項を独断で決定し始める徳川家康・・・それを警戒する石田三成は、上洛要請に応じない上杉景勝を謀反とみなし(4月1日参照>>)、家康が会津征伐に向かったのを絶好のチャンスと見て挙兵し、留守で手薄になった伏見城を攻撃します。(7月19日参照>>)

Sanadamasayuki500 最終的に関ヶ原で激突する事になるこの戦いですが、この時、真田昌幸とその長男・信幸、そして次男の幸村親子は、父・家康の先鋒として会津に向かっていた徳川秀忠隊に合流すべく北に向かっていました。

そんな真田親子が下野・犬伏に差し掛かった慶長五年(1600年)7月21日親子のもとに手紙が届きます。

それは、前田玄以増田(ました)長盛長束正家三奉行の署名の入った『家康・弾劾状(家康の悪行を書き並べた物)(7月18日参照>>)・・・これは、各地の諸大名に送られた物で檄文の意味も込められていました。

そして、もう一通は、三成の密書・・・もちろん、毛利輝元を総大将(7月15日参照>>)とする西軍への参加のお誘いです。

密書を受け取った真田親子は、重臣たちをも遠ざけ、今後の身の振り方について協議を始めたのです。

この時に意見の分かれた兄弟は、刀を抜かんがばかりの激論になったと言われますが、上記の通り、重臣をも遠ざけているので、実際のところは、よくわかりません。

結果は、父・昌幸と次男・幸村が西軍につき、長男・信幸が東軍につくという親兄弟で別々の道を歩む事になるのですが、冷静に考えると、上記のような激論というよりは、天下分け目の戦いで、東軍・西軍どちらが勝っても、真田家が生き残れるようにとの配慮だったでしょうね。

どちらがどちらにつくか?という事に関しては、信幸は、家康の重臣・本多忠勝の娘を、一旦家康の養女にして嫁に貰ってますから、家康と彼は、義理の親子関係になるわけで、ここは長男・信幸が東軍・・・。

逆に、幸村は豊臣方の奉行・大谷吉継の娘と結婚していますので、その点から見ても、幸村が西軍というのが妥当でしょう。

昌幸自身は、西軍につきます。
想像の域をでませんが、これには昌幸の「家康に一泡吹かせてやりたい」という野望的な思いがあったのかも知れません。

昌幸は、かつて、秀吉から「表裏比興(ひょうりひきょう)と呼ばれた事がありましたが・・・
表裏とは読んで字のごとく、オモテとウラ・謀反の事で、比興とは卑怯の事。(秀吉に言われたかぁないかも知れない)

真田家は、小国とは言え、この戦国の荒波を見事に乗りこなし、生き残って来たわけですから・・・いえ、小国だからこそ、その知謀と策略を駆使して、守り抜いて行かなければ、存続はできないのです。

今回も、その家の存続を一番重要視した対策だったでしょう。

とにもかくにも、ここで親子は袂を分かつ事になります。

その日のうちに、昌幸と幸村は家康陣営を去り、信幸が、二人が去った事を家康に報告すると、家康は「合戦に勝利したら信州はお前にやる!」と、彼が父に反発してまで自分のところに残ってくれた事を大いに喜んだと言います。

さて、「西軍にいく」と言って、去った二人ですが、ご存知のように、彼らは関ヶ原には行っていません。

そうです。
あの上田城に籠って、家康の息子・秀忠を迎え撃つ事になるのですが(9月7日参照>>)、その前に・・・

上田への帰還の途中、長男・信幸の居城・沼田城に立ち寄るのですが、そこに立ちはだかったのは、留守を守る長男の嫁=小松姫・・・と、そのお話は7月25日のページでどうぞ>>
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家康・江戸開幕への時代」カテゴリの記事

コメント

はじめまして、五遷・主簿と申します。ココログを使っています。歴史好きなのでリンクの許可をください。相互リンクなら尚更嬉しいです。

>光秀の密書・

 ???三成ではないのですか。

>昌幸は、かつて、秀吉から「表裏比興(ひょうりひきょう)」と呼ばれた事がありましたが・・・

 武田信玄から麒麟児と呼ばれ、戦巧者ぶりは上杉謙信も驚くほどだったのに…。名門名家の者にコンプレックスが以前強かった秀吉だからでしょうね。

投稿: 五遷・主簿 | 2008年7月21日 (月) 08時00分

五遷・主簿 様、コメントありがとうございます。

>光秀の密書・
 ???三成ではないのですか・・・

アハハ・・・そうです。
この時、ものすごく眠たくで、頭がボーッとしながら書いてました(#^^#)
朝・・・と言っても昼ですが、起きてから訂正させていただきました~

リンクは、していただいて結構ですよ。
五遷・主簿様のリンクを確認しだい、こちらからもリンクさせていただきます。

それでよろしいでしょうか?

投稿: 茶々 | 2008年7月21日 (月) 14時06分

幸村がとーっても有名で人気絶大ですが、私は信幸が好きです(^^)
真田太平記を読んで惚れてしまいましたww
身体をはって昌幸を助けたところとかかっこよすぎです。

投稿: 味のり | 2008年7月21日 (月) 21時23分

味のりさん、こんばんは~

ある本に・・・
“真田三代とは、信濃国真田郡松尾城に居して真田氏を称した幸隆から三男・昌幸、その次男・幸村の事をいう”
と書かれていましたが、さすがに「それは兄貴がかわいそうだろう」と思ってしまいました。

後に、沼田と松代に分かれる真田氏ですが、松代真田が明治まで残るのも、ここで、信幸さんが涙を呑んで、父と弟の敵に回り、真田家を守ってくれたからですもんね。

投稿: 茶々 | 2008年7月21日 (月) 22時44分

機を見るに敏な昌幸なら、家康に付いた方が有利な事など見抜けそうなものですが、昌幸が家康に組しなかったのは…かつて武田氏が滅び、一時的に徳川傘下に入った折り、沼田領を巡って北条氏と問題が生じた際に徳川対北条の全面戦争を回避したい家康が昌幸に沼田領を北条氏に割譲せよって言った事が後を引いてたんじゃないでしょうか。

投稿: マー君 | 2008年7月22日 (火) 00時36分

マー君さん、おはようございます。

もともと信濃の小県郡の豪族だった真田氏が、戦国の波に呑まれる中、武田氏とはちゃんとした主従関係ができていたようですが、それ以外の武将には、心を許してはいなかった感がありますね~

幸村も、上杉に人質に行ったかと思えば、またまた豊臣にも人質に出されてますし・・・

特に家康は・・・という気がします~何となく

投稿: 茶々 | 2008年7月22日 (火) 09時13分

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