心太と書いて、なぜトコロテンと読む?
夏の風物詩つながりで、今日はトコロテンの豆知識&歴史を、ご紹介させていただきます。
このトコロテン・・・漢字では『心太』。
パソコンでも一発変換できるにしては、なんで、心太と書いてトコロテンと読むのでしょうか?
ご存知のように、トコロテンは、テングサ類を煮詰めて、寒天質を抽出して冷やし、ゼリー状にした食べ物・・・日本独自の海草製品です。
これが、『大宝律令』にも凝海藻(こるもは)なる名前でて登場する歴史ある食品なのです。
やがて、それは、平安時代になって『古々呂布止(ココロフト)』と呼ばれるようになります。
このココロとは、こる・こごる(凝る)という意味で、フトは、お餅のような食品の事・・・つまり、ココロフトは、「凝り固まったお餅」という意味ですね。
この頃には、汁物の具として食べられていました。
やがて、ココロフトに、『心太』という漢字が当てられるようになり、鎌倉時代には、精進料理の一つとして食されていました。
室町時代には、京都の西山で加工され、公家や貴族に大いにもてはやされたそうで、その呼び名も、ココロフトからココロテイと変化し、時代の流れとともに、ココロテイ→ココロテン→トコロテン・・・バンザ~イ!バンザ~イ!
と変化していったのですが、心太という漢字だけは、そのまま使われ続けたというわけです。
江戸時代の寛永年間(1624年~1643年)の頃には、トコロテンという呼び名が定着し、夏の食べ物として冷たい状態で、砂糖あるいは醤油をかけて食べたのだそうです。
天保の頃に書かれた『守貞漫稿』には・・・
「心太、トコロテンと訓ず。三都とも、夏月之を売る。蓋(けだ)し、京坂、心太を晒(さら)したるを水飩(すいとん)と号く。心太一箇一文、水飩二文、買うて後に砂糖をかけ、或は醤油をかけ之(これ)を食す。京坂は醤油を用ひず」
とあります。
他の文献にも、「水飩は上品、心太は下品」という記述があるところを見れば、どうやら、心太を水でさらして冷たく冷やした物が水飩で、当然ですが、そっちの方がちょっと高かったって事ですね。
しかも、「京坂は醤油を用ひず」・・・って、すでにこの時代に東西の食べ方が分かれてますね~。
そうです・・・私は大阪なので、長年、黒蜜でしかトコロテンを食べた事がありませんでした。
昔は、『てん突き』と呼ばれる水鉄砲のような器具を使って、「一突きなんぼ」で売られていたトコロテンですが、最近では、もっぱら、スーパーなどで、上からかける物が添付されたトコロテンを購入しますが、仕事の関係で、富山に引越した時に、初めて、酢醤油付きのトコロテンを見て、びっくりしてしまいました~。
しかし、さすが、富山は、東西文明の十字路!「日本のイスタンブール」(←これは、私が言ってるんですが・・・)、黒蜜と酢醤油の両方のトコロテンが売られてました。
中には、一つのトコロテンに、二つとも付いている物もあり、「お好みでどうぞ」みたいな説明がついていました。
一度は、酢醤油にも挑戦してはみましたが、やはり、食べなれた黒蜜がいいです。
逆に、東京の方から見れば、黒蜜はあり得ないんでしょうね。
ところで、このトコロテンの原料であるテングサも、最初の頃はココロフトと呼ばれていましたが、後になってトコロテンの材料であるところからトコロテングサと呼ばれるようになり、やがて、頭の部分を省略してテングサと呼ばれるようになったそうです。
今日のイラストは、
昨年の今頃には、暑い暑いと言いながら、平安時代のカキ氷のお話(8月5日参照>>)をさせていただいて、清少納言っぽい人にカキ氷を持っていただいたのですが、それならばと、今回は光明皇后っぽい人に心太を持っていただきました~。
小耳に挟んだ情報によれば、何やら正倉院の文書の中にも『心太』の文字があるらしく、「正倉院と言えば、亡き聖武天皇の遺品を保管した光明皇后でしょう」って事で(6月21日参照>>)、正倉院をバックに、器がやはり、シルクロードを渡ってきた白瑠璃碗で・・・
もちろん、関西の方なので、黒蜜でっせ!
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コメント
ところてんは、ゼラチンの舌触りですね。大昔できたのは、知らなかった。
おー!光明さまのところてんイラストですか、おしゃれなのでグットですよ!
面白い!今度は清少納言や額田王ぐらいのところてんも描いてほしいですね・・・・・・。
私はまだ篤姫の海水浴シリーズまだ続きます。
投稿: sisi | 2008年7月30日 (水) 13時37分
こんにちは~!トコロテンの歴史は古く、遣隋使又は遣唐使あたりが製法を支那から持ち帰ったと思われます。中国の本草書に「凝藻」「凝海藻」、和名抄では「古毛留波(こもるは)」の表記があります、凝=かたまる、こおる事に由来したもので、他に「煮こごり」「氷(凍る)」や「郡」などがあります。藻は「は(葉、波)」とも読んだようです。当初はお寺の精進料理として伝わったものでしょう。これに似た食品には「寒天(天草)」「おきゅうと(えご草)」「くずきり(葛)」があり、普及には「北前船」が大きく関わっていたと考えます。「おきゅうと」は佐渡、輪島辺りから隠岐、博多へと伝わり「浮太」や「沖人(隠岐人?)」「お救人(飢饉から人々を救った食べ物)」とも表記され、博多では主として朝食時に薬味と生醤油で供されます。寒天は伊豆産の天草(てんぐさ)が陸路、主産地の信濃へ(凍らせて作る)、そして山を越えて富山、京都へと伝わった物でしょう。「くずきり」は安い地元原料の葛から「寒天」の代用品として開発され、共に「黒蜜」で供されたと思われます。読みの転訛は諸説ありますが江戸時代には「太」を「てん」とも読み、後世「古々呂布止」が「心太」となってからは「しんぶと」「こころぶと」「しんたい」「しんてい」「しんてん」「こころてん」から最終的に語呂の良い「ところてん」に落ち着いたと考えますが、如何で御座いましょうか?概略、私見も織り交ぜながらレスしましたが「トコロテン」一つとっても「日本の伝統食」の奥深さが感じられますね。でぇ~、今夜のデザートは京都からの「竹筒入り葛切り」で涼を呼ぶ事と致しましょう(笑)
投稿: 鳳山 | 2008年7月30日 (水) 15時35分
sisiさん、こんばんは~
清少納言は、やっぱり、カキ氷でしょう・・・
篤姫シリーズ、続いてますね~
投稿: 茶々 | 2008年7月30日 (水) 23時37分
茶々さん、コンバンワ。ところてん一つ取り上げても奥が深いモンですねぇ。ところでindoor-mama.さんはところてんを食べる時…黒蜜派ですか?酢醤油派ですか?。
投稿: マー君 | 2008年7月30日 (水) 23時43分
鳳山さん、こんばんは~
誰も、その目で見た事がない以上、歴史には、正解という物がない・・・その分イロイロな見方ができて、そこがおもしろいところでもあるんですよね~。
最近は、葛も貴重なのか、高いのか、別の物が混ざってるのが多いですよね~
先日も、まるでゼリーのようなわらび餅に出会って、大変ショックを受けました。
屋台で売られていた頃が懐かしいです。
投稿: 茶々 | 2008年7月30日 (水) 23時48分
マー君さん、こんばんは~
私は、関西なので黒蜜です。
酢醤油だと、おかずみたいに思ってしまいます。
たぶん、慣れでしょうけど・・・
投稿: 茶々 | 2008年7月30日 (水) 23時51分
茶々 さんこんにちは、
最近関東でも黒蜜のところてん本当にたまにですが見かけます。1回挑戦していようと思っているのですが..あんみつとかみつまめのほうがって思ってしまいます。
やっぱり・酢醤油に青海苔、カラシ、って感じ・納豆みたいですか?
名古屋のほうでは1本箸で食べると聞いた事ありますが本当かしら?
投稿: エコリン | 2008年7月31日 (木) 11時16分
エコリンさん、こんにちは~
大阪の人間から見れば、なぜ?あんみつとかみつ豆は蜜なのに、心太は酢醤油なんだろう?って不思議です。
大阪では全部蜜の味なので・・・。
>名古屋のほうでは1本箸で食べると聞いた事ありますが本当かしら?
それは、知りませんでした・・・
食べるのに、技術がいりそうです。
投稿: 茶々 | 2008年7月31日 (木) 17時31分