動かぬ西軍総大将~毛利輝元・関ヶ原の勝算
慶長五年(1600年)7月15日、三奉行の連署状を受け取った毛利輝元が、大坂へ向けて、広島城を出陣しました。
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慶長三年(1598年)、幼い秀頼を五大老と五奉行に託し、あの豊臣秀吉が亡くなりました(8月18日参照>>)。
それでも、重鎮の前田利家が踏ん張ってた間は、何とかバランスを保っていたものの、利家の死とともに、必然的に豊臣家臣団のトップとなった徳川家康は、豊臣家を軽視しはじめ、横暴な振る舞いが目立つようになります。
亡き秀吉の恩に報いるためにも、家康を許してはおけない・・・五奉行の一人であった石田三成は、家康を排除する決意を固めるのです。
ご存知、関ヶ原の合戦です。
慶長五年(1600年)の正月に、五大老の一人・上杉景勝が、年賀の挨拶をしに上洛しなかったのを「謀反の疑いあり」として、景勝を討つという名目で、伏見城を後にし、一路東へ兵を進める家康・・・
これを絶好のチャンスと見た三成は、7月2日、家康に合流して会津征伐に向かおうとしていた大谷吉継を、自らの居城・佐和山城に呼び出し、「打倒家康」の気持ちを打ち明けたのです。
初めは、「軽率な行動である」と三成を諫めて、一旦、会津征伐に加わった吉継でしたが、やはり、そこは無二の親友・・・考え直して、もう一度三成と会う事にします。
そして、吉継が三成の計画に賛同する決意をした7月11日(7月11日参照>>)・・・二人の間で話合われたのは、「実際に戦うとなれば、家康に対抗できる大物に総大将になってもらわねばならない」という大将選び・・・。
そこで、白羽の矢が立ったのが、家康と同じく五大老の一人であった毛利輝元だったのです。
この輝元は、あの西国の雄=毛利元就の孫にあたります。
元就の嫡男であった隆元が早くに亡くなり(8月4日参照>>)、幼い頃から後継者とされた輝元・・・「毛利の両川(りょうせん)」と呼ばれた元就の次男・吉川元春と三男・小早川隆景が、甥っ子の輝元を盛りたてて、元就亡き後の毛利家を大きくしてきましたが、一方では、この盛りたて方がやや過保護気味だったため、輝元はかなりのお坊ちゃんとして成長したとも言われますが・・・
毛利が秀吉の傘下となってからは、四国征伐や九州征伐にも出陣していますが、その時の主力となったのは、やっぱり吉川隊と小早川隊・・・輝元が五大老の一人に名を連ねる事ができたのも、この両おじ様の活躍による物でした。
関ヶ原の頃には、吉川家は元春の息子・広家が当主に・・・、小早川家は隆景の養子の秀秋(秀吉の正室・ねねの甥)が後を継いでいました。
そんな輝元に、三成と吉継は、五奉行のうちの三人・・・前田玄以・増田長盛・長束正家の名前を連ねた「大坂へ来てちょーだい」という内容の連署状を送りと届けるのです。
7月12日付けのその書状には・・・
「詳細は安国寺に聞いて、早々に大坂に来てね」
・・・と、どうやら、輝元の説得には、安国寺恵瓊(えけい)があたったようです。
この書状を受け取った輝元は、即、準備し、慶長五年(1600年)7月15日、広島城を出陣・・・船に乗り、瀬戸内海を一路、大坂へ向かいます。
これに驚いたのは、吉川家を継いでいた広家です。
彼は、「もはや時代は家康である」と読んで、独断で密かに家康と通じ、毛利の領地を安堵してもらう約束で、東軍につく事を決めていたのです。
ただ、輝元自身は、まだこの時点では総大将に担ぎあげられるとは思ってもいなかったようで、単に「呼ばれたから来た」といった感じだったようですが・・・
確かに、この日、輝元が大坂に呼ばれた時点では、まだ、三成以下の西軍のほうでも、総大将に決定していたわけではなく、反対意見もあったようですが、結局は三成が推した輝元に総大将を頼む事になり、先の安国寺恵瓊が毛利家の参謀という立場を利用し、言葉巧みに輝元を説得し、あれよあれよと言う間に、総大将に決定してしまったのです。
従兄弟で養子となっていた毛利秀元が・・・
「なに簡単に大坂城に入っとんねん!家康にバレたらどうするんじゃ!」
と、嘆いているところを見ても、この時の毛利家内にも、この西軍参戦に積極派と慎重派があった事をうかがわせます。
とは言え・・・とにもかくにも、輝元は、西軍の総大将になっちゃいました。
・・・で、結局、関ヶ原の合戦の当日、毛利の軍勢がとった行動は・・・
秀頼の補佐という名目で、輝元自身は関ヶ原へは行かず、大坂城に留まり、かの秀元を大将にして現地へ派遣。
そして、現地では、家康と約束を交わしている広家が、秀元の前面に陣取り、一歩も動かない・・・これで、一応は、東西両軍への義理立てができる事になる・・・かな?
西軍が勝った場合は、はなから西軍として参戦しているわけですから、何の問題もありませんし、東軍が勝った場合でも、密約がすでに交わされているので、こちらもOK!
もしかして、合戦がスゴイ事になって、東西両軍が大ダメージを受けた場合、実際には戦っていない毛利軍は戦力を保持したままなので、天下が向うから転がり込んで来る可能性さえあるかも・・・です。
「どう転んでも損はない」・・・それが毛利の勝算だったかも知れません。
結果・・・ご存知のように東軍の大勝利(9月15日参照>>)となりますが、毛利の思惑とはうらはらに、家康の見事な約束やぶりで、領地は大幅に削られてしまいます(9月28日参照>>)。
しかし、まぁ、考えてみれば、石田三成や安国寺恵瓊は斬首(10月1日参照>>)されちゃってますから、負けチームの総大将でありながら、家名が残っただけでも儲けモンっちゃぁ、儲けモンなんですが・・・。
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コメント
上杉景勝と云えば、先日、夕方のニュース番組で「若い女性の間で戦国武将ブーム」を放映してました。戦国武将専門ショップ?で買い物していた女性は「石田三成」ファンとか、上杉景勝の重臣「直江兼続(重光)」ファンとかで、それぞれ家紋入りの携帯ストラップを持ち、お部屋にはフィギュアや戦旗が飾ってありました。そして、仲間との楽しい食事は秀吉の兜を飾る戦国居酒屋で・・・本当にブームなのかどうかは知る由もありませんが、解説では『今の若い女性は強いリーダーシップを持っていた戦国武将に憧れている』んだそうです。案外、世相を反映しているものかもしれませんね(笑)
投稿: 鳳山 | 2008年7月15日 (火) 12時47分
輝元くんは…叔父ちゃん達に甘やかされて育っちゃったんですね。やっぱ可愛い子には旅をさせろって言いますから、父上様が亡くなった時に、誰かの人質に出すとか、寺に預けるとかして修業を積ませなきゃダメだったんじゃないでしょうかね。
投稿: マー君 | 2008年7月15日 (火) 13時44分
鳳山さま、こんにちは~
なにやら、そのブーム・・・「戦国BASARA」というゲームをきっかけに火がついたようです。
出てくる武将が全員イケメンです。
私も、伊達政宗と真田幸村、二つのストラップをぶらさげて、「戦国武将ではこの二人が好き!」と言っている人を見た事があり、「道明寺・誉田の合戦爆発やん!」と、思ってしまいましたが、それをきっかけに本当に歴史の事を好きになってくれる人もいるようなので、より多くの人が興味を持ってくださる事はうれしいです~。
このブームで戦国ファンになった女性は、関ヶ原の古戦場へもハイヒールで向かわれるそうで、その勢いに負けてしまいそうです。
投稿: 茶々 | 2008年7月15日 (火) 14時52分
マー君さん、こんにちは~
そうですね~
結局、関ヶ原でも、そのやさしいオジチャンの息子のおかげで、滅亡だけは避ける事ができたわけですもんね。
やっぱ子育てには、きびしさも必要なのでしょう・・・
投稿: 茶々 | 2008年7月15日 (火) 15時03分
輝元くん…もう少しお爺ちゃん見習って策士にならなきゃダメだよね。お爺ちゃんも戦国の厳しさを身をもって体験してきたんだから輝元くんには…『周りの大名は隙有らば毛利の領土を狙っとるんやさかい、気ぃ付けなアカンのやでぇ』って耳にタコが出来るくらい教え込んでやらなきゃダメっすね。輝元くんに、お爺ちゃんみたいな策士の血が受け継がれてたなら、毛利家ももっと大封を以て存続出来たでしょうに残念です。お爺ちゃんも孫には自分みたいな汚い手で領土拡張するんでなく、中国地方の盟主として正々堂々と王道を歩んでほしいとの思いから謀略なんかは教えなかったんですかね?
投稿: マー君 | 2008年7月15日 (火) 21時31分
やっぱ、孫はかわいいんでしょう
投稿: 茶々 | 2008年7月15日 (火) 22時15分
はじめまして、いつも楽しく拝見させていただいております。ところで輝元ですが相当に厳しく二人の叔父である吉川と小早川に教育されたと伝えられてます。実際、余りに厳しいので「このままじゃ殺される、体が持たない」と輝元が家来に泣き言を言ったと毛利家の記録にあるとか。
投稿: ミッキー | 2008年7月18日 (金) 06時16分
ミッキーさん、コメントありがとうございます
>相当に厳しく・・・教育されたと伝えられ・・・
なるほど、そういうお話もあるのですね。
これは、現在の子育てにも通じる判断の難しい領域ですね~
「ウチは厳しくしつけている」と親御さんがおっしゃって、子供さんも「ウチの親は厳しい」と言っているのに、はたから見れば「何じゃソラ!」と思うほどユルユルのご家庭もありますし、逆に、親も平気だし子供もあたりまえなのに、メチャメチャ厳しいおうちもありますしね。
これだけは、第三者が冷静に観察しなければ、何とも言えない部分がありますね~
ただ、輝元さんには、「主体性に欠ける性格なった」なんてウワサもあり、影響を受けやすいタイプだったのかな?とも思うのと、大事な後継者であるが故に、武勇の訓練と心の鍛錬の点で、ちょっと相違があったのかも…と、思ったりもしますね。
投稿: 茶々 | 2008年7月18日 (金) 10時44分
毛利輝元の人生は、ある意味、親戚に支えられた人生かもしれません。父親である毛利隆元が、永禄6年(1563年)に急死したことで、わずか11歳で家督を継がなければならなくなりました。早くに隆元と死別したことが、輝元のその後の人格形成に多大な影響を与えたことでしょう。ただし、吉川元春・小早川隆景兄弟が、輝元の叔父ゆえに、輝元を支えたおかげで、祖父の毛利元就が、苦労して築き上げた栄華を維持できました。しかし、元春・隆景兄弟が相次いで死去したことで、今度は、従兄弟の吉川広家が、輝元を支えることになりました。そう考えると、輝元は、親戚無しでは生きていかれなかったのではないでしょうか。まさに毛利家は、「血は水よりも濃し」という諺(ことわざ)が、ぴったり合いますね。
投稿: トト | 2016年6月 4日 (土) 09時43分
トトさん、こんにちは~
毛利の両川の絆は強かったですね。
投稿: 茶々 | 2016年6月 4日 (土) 13時24分
毛利輝元のことで、新たに追記したいことがありますが、関ヶ原の戦いが終了した後に、輝元が、徳川家康によって、領地や石高を減らされた程度で済んだのは、輝元の従兄弟の吉川広家が、家康らに対して、交渉したおかげですよね。そう考えると、広家が、吉川元春・小早川隆景兄弟の役割を、1人で受け持ったからではないでしょうか。輝元が決して無能というわけではありませんが、以前コメントしたように、親戚の支えがあったからこそ、最終的には、長州藩の礎を築くことができたのだと思います。改めて、毛利家の結束力の強さを感じました。
投稿: トト | 2016年6月 6日 (月) 18時25分
トトさん、こんばんは~
どこまで史実に近いかはわかりませんが、一般的には、吉川広家は、総大将の毛利輝元にも、名代の毛利秀元にも言わずに、独断で徳川方と誓紙を交わしていたようなので、その責任という物もあったかも知れませんね。
周防と長門の2国だけが残ったのは、ひょっとして秀吉と秀元とのあの約束>>が、本当にあったんじゃないか?と考えてしまいます。
投稿: 茶々 | 2016年6月 7日 (火) 01時38分