曹洞宗の開祖・道元~永平寺を建立
寛元二年(1244年)7月18日、越後の領主・波多野義重が寄進した越前の地に道元が大仏寺を建立・・・後の永平寺です。
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道元は、正治二年(1200年)に京都にて、父は内大臣の久我道親(みちちか)、母は摂政・藤原基房(もとふさ)の三女・伊子という、申し分ないお二人の間に生まれました。
しかし、3歳で父を亡くし、8歳で母を亡くし・・・13歳で比叡山に入ります。
翌年、師匠の天台座主・公円より、仏法房道元(ぶっぽうどうどうげん)の名を与えられました。
比叡山で身も心も大きく成長した道元は、仏法について疑問を抱くようになりますが、その答えが比叡山では得られないと悟り比叡山を降ります。
近江(滋賀県)の三井寺、京都の建仁寺などで修行を重ねながら、やがて24歳の時に中国に渡ります。
天童山をはじめ、諸国の山々を遍歴して修行を重ねますが、いっこうに、彼の疑問が解ける事はありませんでした。
そんな中、新たに天童山にやって来た住職・如浄(にょじょう)禅師と出合い・・・
「この人こそ、ずっと探していた真の師である!」
と感じ、その教えを乞います。
やがて、28歳で帰国した道元は、京都の伏見・深草に興聖寺を建立し、曹洞宗を開きますが、伝統仏教からの弾圧に遭い京都を追われて、越前に逃れました。
そんな道元に帰依したのが、越後(新潟県)の領主・波多野義重でした。
義重が寄進した越前(福井県)の地に、寛元二年(1244年)7月18日、道元が開堂したのが大仏寺・・・後の永平寺です。
そして、道元は、終生この地を拠点に、弟子を育て自身の修行にも励みましたが、建長五年(1253年)9月、京都にて療養中に帰らぬ人となりました。
その後、波多野氏からの援助が弱まり、一旦衰えをみせた永平寺でしたが、5世・義雲の時代に現在の場所に移され、曹洞宗の大本山にふさわしい復興を遂げました。
また、曹洞宗自身も、出家して厳しい修行を積まなければならない、女性は救済されない、難解な言葉でわかり難いなど、その教えのハードルがかなり高かったために、一旦は衰退を見せますが、鎌倉時代の末期に登場した螢山(けいざん)という僧によって復興されます。
イタコで知られる恐山・円通寺、分福茶釜の茂林寺・・・などのお寺は曹洞宗のお寺ですが、螢山は、こういった民間信仰を取り入れる事によって、その難解な教えを庶民レベルまで理解できるように努め、見事大衆の支持を獲得し、曹洞宗を復興させたのです。
ちなみに、曹洞宗という名前も螢山さんが名付けた物だそうですが、実は、それまで、この教えでは、特定の宗派名を名乗る事は禁止されていたのだとか・・・
道元さんが永平寺を建立した頃とは、少し違った形で発展した螢山さんの曹洞宗ですが、これだけ発展したのなら、道元さんも、きっとお喜びの事でしょう。
・・・南無釈迦牟尼仏(なむしゃかむにぶつ)・・・
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