たまがきの恋物語~手紙に託したその思いは?
寛正三年(1461年)7月26日、備中国新見荘の直務代官に決定した僧・祐清上人が、京都・東寺を出発しました。
・・・・・・・・・
京都府立総合資料館・所蔵の『東寺百合文書』の中に、『たまがき書状』と呼ばれる、かな文字で書かれた一通の手紙が残っています。
この手紙は、室町時代の農村の女性が書いた直筆の手紙としては、唯一、現在に残る貴重な史料で、その差出人は、たまがきという女性です。
彼女が暮らしていたのは備中国新見荘・・・現在の岡山県新見市。
当時の新見荘は、京都・東寺領の荘園で、守護大名が細川氏・・・その細川氏の家臣である安富智安(やすとみちあん)が請負代官として現地を支配していました。
つまり、現地で智安が徴収した年貢を、荘園領主である東寺に仕送るというわけですが、当然そこには、彼ら守護の取り分も発生するわけです。
先日の豊臣秀吉の太閤検地(7月8日参照>>)のところでも、チョコッと書かせていただきましたが、そのように、一つの土地に対して、複数の人が所有権を持つのが、中世の荘園制度・・・で、その智安は守護の力をバックに、農民からは不当に重い年貢を徴収し、東寺に対しては、約束分の量を納めなかったり、未納のままだったりという事が多くあったのです。
要するに、自分たちの取り分=中間マージンを多くしてガッポガッポ儲けてたって事ですね。
そこで、ついに蜂起した名主・41名が起請文を提出し、荘園領主である東寺の直務支配を要求したのです。
直務支配という事は、東寺が直接支配をするという事ですから、当然、東寺内部の誰かが現地に行かなくてはなりません。
その現地へ行く役=直務代官として派遣されたのが、東寺の僧・祐清(ゆうぜい)でした。
寛正三年(1461年)7月26日に京都を出た祐清は、8月5日に現地に到着・・・新見荘内でも、比較的開けた里という地に事務所を構え、現地の実情を調査するとともに、新しい改革に取り組みます。
この時、彼の身の回りに世話をしたのが、現地荘官・福本盛吉の妹だったたまがきでした。
「年貢の取立てが、武士から僧侶に代わるのだから、少しは楽になるだろう」という農民たちの期待に答えてやってきた祐清でしたが、彼が農民たちに伝えた寺命は、予想以上に厳しいものでした。
- 自分たちが自ら希望して直務になったのだから、年貢を納めないという行為は許さない。
- 今まで年間8人だった京上人夫を年間12人にする・・・そのうち6人は実際に京に行って仕事をするが、残り6人は金銭でもよい。
- 今までの公事物(貢物・紙とか漆とか)に蝋(ろう)を加える。
ガ~ン!増えてますやん!
この最初の段階で、少なからずショックを受ける農民たち・・・。
前年から不作が続いていた荘内では、「何とか許してほしい」という声があがりますが、若僧だった祐清にとって、東寺のおエライさんの決めた寺命は絶対ですし、若いがゆえに融通もききませんから、「この命賭けてでも、年貢を納めない者は徹底的に処罰する」と言って譲りませんでした。
こうして、マジメ一本やりで荘園再建に取り組む祐清は、ついに、年貢を未納のままにし続けていた名主・豊岡をクビにして追放してしまいました。
「安富と変わらんやん!」
「いや、安富の時のほうがマシやった」
という、不満の声が、村人たちから沸きあがってくるのも、当然のなりゆきかも知れません。
やがて翌年・寛正四年(1462年)の8月25日、未だ従わない奥・中奥と呼ばれる地域へ見回りに出かけた祐清・・・。
ある新築中の家の前を通りかかると・・・
「建築中の家の前を通る時は、馬から下りるのが、ここらへんのしきたりだ!」
と、家の中から出てきた男たちに叱られてしまいます。
その話を聞いて、慌てて馬を下りる祐清に、いきなり男たちは斬りかかり、哀れ、祐清は命を落してしまうのです。
男は、先の名主をクビになった豊岡の親戚の者でした。
恨みを持つ者に殺されてしまった祐清ですが、もちろん、村人全員が彼を恨んでいたわけではありません。
飢饉に苦しむ農民と、使命をまっとうせよという東寺の間で苦悩した彼は、東寺に対して「今回はいつもの半分の年貢で許してあげて欲しい」なんていう手紙を幾度か書いて、東寺から、その約束を取り付けたりもしていましたから、彼に親しみを抱いている農民も多くいたのです。
現に、仇討ちとばかりに、殺した相手に殴りこみをかけた者もいました。
そんな好意を持っていたうちのひとりが、たまがきです。
もちろん、ごく普通の一般人である彼女の生涯については、何一つ記録されてません。
その容貌も、その性格も・・・
ただ一つ、冒頭にご紹介した、彼女の手紙が残っているのです。
彼が、代官としてやって来た時から、わずか一年・・・祐清の弔いをすませた彼女は、その遺品の整理をしながら、東寺へ、彼の死の報告と、その遺品の処分について書き綴っているのです。
贅沢などいっさいない、質素な遺品・・・それらの品々を書き並べながら、白小袖・紬表・布子の3点について・・・
『このほとなしみ(馴染)申候ほとに、すこしの物おは、ゆうせいのかたみにもまいらせたく候、・・・給候は、いかほと御うれしく候』
「この三品を、祐清の形見としていただけたら、これほどうれしい事はありません」
彼が、一番身近に、身に着けていた品を、彼女は、形見として欲しいと・・・
たった一年間、ともに過ごした二人の間に、何があったのか?
どんな風に、二人は通じ合っていたのか?
東寺に残る新見荘の史料は、その量の多さから、中世の歴史を語る上で外す事ができないほどの貴重な物ですが、当然の事ながら、その内容は郷土史と言える物で、祐清とたまがきの心情にはふれていません。
しかし、唯一残る直筆の手紙からは、その溢れんばかりの彼女の思いが伝わってくる気がします。
真っ白な小袖を身にまとって、都から颯爽とやってきた若き僧・・・農村に暮らす彼女は、わずか一年間で、一生ぶんの恋をしたに違いありません。
果たして、彼女の願いが叶えられたのかどうか・・・それだけが気がかりです。
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コメント
祐清にとっても、たまがきの存在は心休まるモノだったでしょう。僧侶と言えど若い男性。戒律の厳しい寺院から地方に派遣され、住職や兄弟子の目が届かない中で、淡い恋模様を描いた事も想像に固くないですし、下世話な話…男女の仲になってたとも考えられますね。それを破戒坊主と責める人も居るかも知れませんが、僕はそんな風には思えませんね。
投稿: マー君 | 2008年7月26日 (土) 13時40分
マー君さん、こんにちは~
遠く離れた地で、農民たちの反発と寺からの要求の板ばさみになっていた祐清にとって、たまがきは、きっと心の支えになっていた事でしょうね。
投稿: 茶々 | 2008年7月26日 (土) 17時06分
祐清については、新たな研究が発表されてますよ~。
『日本歴史』718号(2008年3月)では、
祐清殺害の理由として、
1.守護勢力とつながる大田の問題
2.未進をした豊岡の殺害
があげられてました。
守護勢力から新見を守りたい領家方百姓は、
祐清の行動に理解を示していましたが、
領家方の人間でない地頭方の谷内は、
個人的恨みをつのらせ、敵討ちに及んだそうで・・・。
投稿: 通りすがり | 2008年8月 3日 (日) 12時01分
通りすがりさん、コメントありがとうございます。
祐清の敵討ちとばかりに、豊岡方に乗り込んだのは、領家方百姓たちですから、彼らが祐清を理解していた人たちであろうとは思われますが、そうですか、新しい研究もなされているのですね。
情報ありがとうございました、参考にさせていただきます。
投稿: 茶々 | 2008年8月 3日 (日) 16時47分
世界遺産に「東寺百合文書」が認定されましたね。たまがきさんも注目されています。
投稿: やぶひび | 2015年10月14日 (水) 23時30分
やぶひびさん、こんばんは~
うれしいですね。
各地に荘園を持ってる大きな寺院の記録は、当時を知るうえで貴重ですね。
投稿: 茶々 | 2015年10月15日 (木) 01時31分
こんにちは。この話大好きです。
実は昨日岡山県立図書館に行ってきたのですが、郷土資料コーナーにたまがきさんの手紙が紹介されてました。懐かしく思い出しました。
投稿: へいたろう | 2016年10月 6日 (木) 01時58分
へいたろうさん、こんばんは~
たまがきさんに関しては、史料が少ないぶん、「どんなだっただろう」と想像が膨らみますね。
投稿: 茶々 | 2016年10月 6日 (木) 18時18分