一宮城・攻防戦~長宗我部元親の降伏
天正十三年(1585年)7月25日、羽柴(豊臣)秀吉の四国征伐で、阿波一宮城の攻防中、家臣の説得に応じて長宗我部元親が降伏しました。
・・・・・・・
織田信長亡き後、天下統一に向けて階段を駆け上がる羽柴(豊臣)秀吉・・・。
信長の次男・織田信雄と組んだ徳川家康と戦った先の小牧長久手の戦い(6月15日参照>>)の時、家康が紀州に応援を求めるのと同時に、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)にも救援を依頼していた事から、天正十三年の4月に紀州を平定(3月21日参照>>)した秀吉は、次に、四国を統一したばかり(10月19日参照>>)の長宗我部氏の討伐を開始します。
6月、秀吉の命を受けた弟の羽柴秀長を総大将に、3万の軍勢が四国へ上陸し、さらに甥の羽柴秀次率いる3万が淡路を経て、ともに阿波(徳島県)へと進みます。
かたや、宇喜多秀家・黒田孝高(如水)・蜂須賀正勝親子の2万3千は、屋島から讃岐(香川県)方面へ、そして小早川隆景・吉川元長の毛利勢・3万は、伊予(愛媛県)へと展開し、次々と諸城を陥落させていきます。
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(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)
7月上旬には、残る重要拠点を岩倉城と一宮城の2城に絞った秀長は、この2城への攻撃に全軍を費やす事にします。
この時、白地城に8千の兵とともにいた元親は、自軍を重視したのか、救援軍を派遣する様子がなかったため、大軍に囲まれた岩倉城はたまらず開城し、残るは一宮城のみとなります。
一宮城は北城と南城からなる城で、南側に鮎喰川(あぐいがわ)が流れる天然の要害となっているうえ、北は谷忠澄(ただすみ)、南は江村親俊(ちかとし)という名将が、合計5千の兵とともに守ります。
攻める秀長軍は5万・・・ここで、秀長配下の藤堂高虎は、トンネルを掘って城を攻めようとしますが、なかなかうまくいかなかった事から、水路を絶っての長期戦へと切り替え、秀長も鮎喰川を挟んで対岸にある辰ノ山に本陣を置き、じっくりと攻める構え・・・。
さらに、その間に、籠る忠澄に、和睦を受け入れるように接触を試みます。
名将であるがゆえ、先を読む事ができる忠澄・・・自分たちが最強だと信じてきた一領具足は、いざという時に瞬時に集まるとは言え、半農半兵の武士たち。
逆に、敵は完全に士農を分離した戦いのプロ集団・・・それも、とてつもない数の集団です。
おそらく、忠澄は、秀長軍を目の当たりにして、自分たちの軍が、もはや時代遅れである事を痛感していた事でしょう。
やがて、彼は7月20日頃から、白地城の元親に向けて降伏するように、説得しはじめますが、元親はなかなか応じようとはしません。
しびれを切らした忠澄は、自ら白地城へと向かい、居並ぶ重臣たちに言います。
「元親さんが、戦わずして降伏するっちゅーのは悔しいけど、日本の大半を支配する軍と戦っても、勝ち目はありません。
このまま土佐に追い詰められて、さらに戦って負けたら、“長宗我部が四国を統一できたんは、長宗我部が強いんやのうて、他が弱かっただけや”って笑われます」
実際に、敵をその目で見た人の話は説得力があります。
居並ぶ重臣たちは、彼の意見に賛同し、ともに、元親ももとへ行き、重臣・全員の意見として伝えました。
元親は・・・
「大将の俺ひとりが、なんぼやるっちゅーても、お前らがそんな腰抜けやったらどうしょうもないがな!好きにせぇや!」
と、キレ気味にその場を立ち去ります。
主君に『腰抜け』と言われては、武士のプライドが許しませんから、
「こうなったら、全員討死しよう」
という者もいましたが、落ち着いて考えて・・・
「いや、主君がキレたからって、家臣もキレてどうすんねん。
冷静になって主君の暴走を止めるのも家臣の役目や」
「好きにせぇって言うてはんねんから、好きにさしてもらおうや」
・・・という感じで、重臣たちの主導のもと、降伏する事が決定するのですが、『土佐物語』では、元親は、怒って退席した後に・・・
「さっきは、戦わんと降伏する事が悔しいんで、つい暴言を吐いてしもたけど、悪かったな。降伏しよう」
と、ちゃんと降伏に同意したとされています。
血気に逸って、討死しなくてよかったよかった・・・
そして、天正十三年(1585年)7月25日、秀長は、忠澄と親俊宛に降伏の条件を書いた誓書を渡します。
そこには・・・
「阿波・讃岐・伊予は没収するが、土佐一国の領有を許す」
という、真っ向から敵として戦った相手のワリには寛大なもの・・・
どうやら、数日前に関白に就任した秀吉さん、「名実ともに天下人」と超ゴキゲンのご様子で、敵に対しても、寛大におなりあそばしていたようです。
これで、元親は、秀吉の臣下となるわけですが、本当に従順な臣下となる気があるのかどうか?・・・彼の忠誠心が試される場は、まもなく訪れます。
そう、秀吉の九州征伐(11月25日参照>>)です。
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コメント
この結果を雲辺寺の住職はどんな風に見たんでしょうかねぇ〜?。元親はんもワシの言う通り、土佐一国で満足しときゃあ、こがぁに配下の侍や領民が死なんで済んどったやろに、欲をかいて四国全土を手に入れようなんて望外な夢を持ちよったさかいに、秀吉はんの不興を買いはったんやわ。ホンマに身の程をわきまえん阿呆やでぇ。なんて思ったんでしょうね。
投稿: マー君 | 2008年7月25日 (金) 19時25分
今回は四国の戦国武将ですね、徳島といえば、蜂須賀一族が有名ですね。四国といえば、私の作品展示!高知はイラスト、愛媛はかまぼこ板の絵は、今、飾ってるんですよ。
篤姫シリーズはまだ制作してるんです。シリーズもまだ更新です。
投稿: sisi | 2008年7月25日 (金) 23時51分
マー君さん、こんばんは~
はて、さて、住職さんは何て思ったでしょうねぇ・・・。
雲辺寺の問答のお話は、同じく『南海治乱記』にある、土佐統一頃の元親さんの見た『夢の話』と合わせて、いずれくわしく書かせていただきたいと思っております。
投稿: 茶々 | 2008年7月26日 (土) 00時33分
sisiさん、こんばんは~
蜂須賀さんは、この時の功績で、元親さんが没収された阿波をもらった人ですからねぇ。
大奥の女性陣、続きますねぇ
投稿: 茶々 | 2008年7月26日 (土) 00時38分
土佐弁が大阪弁みたいになっちゅうですよ(笑)
投稿: みや | 2011年9月13日 (火) 02時30分
みやさん、こんにちは~
すんませんo(_ _)oペコッ
大阪生まれで大阪育ちの私は、大阪弁しかしゃべれないので、リアルな話言葉にしようとすると大阪弁になってしまいます。
悪意はないです。
逆に、中途半端な知識で、土佐弁っぽく変な方言になっては、ホンモノの土佐の方に失礼かな?
という事で、お許しを…
投稿: 茶々 | 2011年9月13日 (火) 11時43分
茶々さん、こんばんは。
一宮城は四国史を語る上でとても重要なはずですがあまり語られていないようで、茶々さんの記事でだいぶ勉強させていただきました。
それにしても、ここでどうにか生き残った長宗我部家が関ヶ原後に改易となってしまったのはもったいない話ですね。
投稿: 鷲谷 壮介 | 2021年2月17日 (水) 18時25分
鷲谷 壮介さん、こんばんは~
なんか、関ヶ原では東軍に寝返るつもりだったけど、使者の土佐弁がキツ過ぎて家康に通じなかった?みたいな話もありますね~
どこまで本当かわかりませんが…
投稿: 茶々 | 2021年2月18日 (木) 01時59分