天才思想家・佐久間象山~幕末の京に散る
元治元年(1864年)7月11日、京都の三条木屋町にて、佐久間象山が河上彦斎に斬殺されました。
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佐久間象山(さくましょうざん)は、幕末期を代表する思想家・・・はじめは儒学を学び、私塾を開いていましたが、外国との緊迫ムードが高まった事で、藩主の命により洋学研究に当たるとともに兵学を学ぶようになり、それからは、西洋への強い関心を持つようになります。
そこから、儒教道徳を保ちながら西洋の技術も取り入れるという、彼独特の思想が生まれ、その考えは多くの人物に影響を与えます。
象山の門弟には、吉田松陰や勝海舟などがいますが、ご存知のように松陰の松下村塾(11月5日参照>>)からは、高杉晋作や伊藤博文といった幕末のそうそうたるメンバーが輩出されていますし、勝海舟を通じては、あの坂本龍馬も象山に出会い、その考えに心惹かれています。
そう考えれば、彼の存在が幕末の志士たちに与えた影響が非常に大きい事がわかります。
しかし、そんな象山の主張は一部の尊皇攘夷派の反感を買う事になり、元治元年(1864年)7月11日、人斬りとして恐れられていた肥後(熊本県)の河上彦斎(かわかみげんさい)(12月4日参照>>)によって、京都・三条木屋町にて暗殺されるのです。
この彦斎は、後に、象山がどのような人物であったのかを知り、それ以来、人斬りをやめたとも言われていて、あの少年ジャンプに連載されていた『るろうに剣心』の主人公・緋村剣心の幕末時代・人斬り抜刀斎は、この彦斎をモデルにしているのだとか・・・
ところで、そんなエライ象山さん・・・学識豊かで、とても聡明な方なのですが、その才能が子供の頃から抜きんでていて、周囲からも天才児ともてはやされたせいか、ちょっと変わったところのある人だったようです。
彼は、相当な女好きで、いつも周囲に
「女を紹介してくれ」「女を紹介してくれ」
と頼みまくっていたそうなのです。
それも・・・
「ケツのデカイ女!」
と決まっていて、あちこちのつてを使って探しまくっていたのだとか・・・。
しかし、これは、単なる女好きではなく、遺伝子の法則に基づいての天才らしい発想・・・彼は日頃から自分の才能に相当な自信を持っていて・・・
「俺のような優秀な人間と、体格のえぇ女との間に子供が生まれたら、優秀で健康な理想的日本人が生まれるに違いない・・・特に、ケツのデカイ安産型の女なら、次々と子供を産む可能性が高い!」
と、真剣に思っていたのです。
もちろん、そこに、美人という条件が加わっていたのも、面食いなのではなく、聡明で健康で、さらに見た目も美しい子孫を残したいがためというのが理由でした。
儒学を学んだにしては、ちょっと・・・ですね。
そんな象山は、勝海舟の妹の順子さんを妻に迎えますが、上記のような考えじゃぁ、夫婦仲がうまくいくはずもなく、象山が自信過剰なら海舟も自信過剰ですから、義理の兄弟としてもソリが合わず、「学問の教えは請うても、人としては、つき合いたくない」というのが、海舟のホンネだったようです。
結局、冷え切った夫婦仲の順子さんとの間には子供が生まれず、お妾さんのお菊さんとの間に男の子・格二郎が生まれますが、この格二郎も、象山に似たのは、女好きなところだけで、学問のほうはサッパリ・・・という予想外の展開に・・・(2月26日参照>>)
やはり、男と女の関係は愛あればこそ・・・物事が計算通りにいかない事を、自分の子供の成長を見るにつけ、彼も痛感したのかも・・・
佐久間象山・享年54歳・・・
いくら変わり者でも、天才と呼ばれた人が、志半ばで暗殺という無念の最期を遂げるのは、心が痛みます。
~夷を以って夷を制す~
「外国の技術で外国を倒す」
「西洋かぶれ」と危険視された彼の思想は、日本を守りたいがための物・・・
女性への愛情はうまくコントロールできなかった幕末の天才も、母国への愛情は、人一倍持っていたに違いないでしょう。
日本の夜明けのためにも、あと、もう少し・・・彼に教えを請いたかったですね。
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