京都・祇園祭の由来
今日7月1日から、京都・祇園祭が始まります。
祇園祭は、5月の葵祭、10月の時代祭と合わせて京都三大祭の一つ・・・また、東京の神田祭、大阪の天神祭とともに日本三大祭の一つにも数えられる京都・東山の八坂神社のお祭です。
一般的には、7月17日に行われる山鉾巡行と、その前日・前々日に行われる宵山・宵々山が有名ですが、お祭自体は、7月1日の吉符入&長刀鉾町お千度を皮切りに、山鉾曳初めや伝統芸能の奉納・花笠巡行などなど・・・、最終日の31日に行われる疫神社の夏越祭まで、一ヶ月間、ほぼ毎日のように、何かしらの行事が行われ、界隈は祇園祭一色に染まります。
(追記:2014年より24日の後の祭り=山鉾巡行が復活しています。)
(くわしい日程は、HPのお祭情報でどうぞ>>宵山での山鉾の位置を記した図もあります)
ところで、もはや日本で知らない人はいないんじゃないか?と思うくらいに有名な祇園祭ですが、このお祭が、もともと怨霊を鎮めるためのお祭であったという本来の意味を知る人は少ないのではないでしょうか?
でたーっ!またまた、平安京の怨霊対策です。
【未完の都・平安京】(10月22日参照>>)
【究極の魔界封じの都・平安京】(10月22日参照>>)
【お彼岸の由来】(9月23日参照>>)
のページで書かせていただいたように、疫病や天災に恐れおののいた桓武天皇が、ありとあらゆる手段で怨霊を鎮めたおしていた平安京ですが、貞観十一年(869年)に、またまた疫病が大流行!
「これは、御霊(祟りをもたらす死者の霊)のお怒りに触れたに違いない」とばかりに、常住寺の僧・円如が、66本の鉾(ほこ)を、御輿(みこし)の前に立てて祀り、洛中の男児たちが、八坂神社から神泉苑まで練り歩き、神泉苑に御輿を奉納し、そこで疫病退散のための御霊会(ごりょうえ)が行われたのです。
この行事は、『祇園御霊会』と呼ばれ、これが現在の祇園祭なのです。
上記の鉾とは・・・今では巡行するあの飾られた車そのものを鉾と呼ぶようになっていますが、もともとは怨霊を鎮める神具の事で、古代の刀や矛をかたどっているとも言われています。
それでは、なぜ?、怨霊を鎮める=八坂神社なのか?
そもそも、怨霊となるのは、政争に敗れ、怨みを残してこの世を去った人たち・・・桓武天皇で言えば、その政治的野望のために死へと追いやった実の弟の早良(さわら)親王(9月23日参照>>)、そして異母弟の他戸(おさべ)親王とその母・井上内親王であり、彼らは上御霊神社に祀られています。
桓武天皇の息子の平城天皇の代には、やはり、後継者でモメた異母弟の伊予親王とその母が非業の死を遂げ、下御霊神社に祀られました。
そんな中、八坂神社の祭神は、スサノヲノミコト(須佐之男命・素戔鳴尊)・・・
そうです。
この、別名:牛頭天王(ごずてんのう)とも言われる荒ぶる神・スサノヲさんこそ、政争で敗れた怨霊の親玉・・・まつろわぬ神なのです。
桓武天皇は、平安京の東西南北の4箇所にも、大将軍神社というスサノヲノミコトを祀る神社を建立しています。
ヤマタノオロチを退治した出雲の英雄神のようにも思えるスサノヲノミコトですが、そもそも出雲に下ったのは、高天原(たかまがはら)で大暴れし、姉のアマテラスオオミカミ(天照大神)が怒って天岩戸(あまのいわと)に隠れてしまったために、高天原を追われた事による物です。
しかも、スサノヲノミコトの子孫であるオオクニヌシノカミ(大国主神)が治めるその出雲を、アマテラスオオミカミの孫のニニギノミコト(邇邇芸命・瓊瓊杵尊)が乗っ取るという、二重の苦渋を味わっています。
そのニニギノミコトの子孫が、かの初代天皇の神武天皇・・・神話の形を借りてはいますが、つまりは、天皇家に政争で敗れた最初の人(神)がスサノヲノミコトという事になります。
だから、怨霊の親玉なんですね。
今でこそ、疫病は、夏場に活発になる細菌やウイルスによって拡大されるものと理解できますが、昔の人にとっては、目に見えない荒ぶる疫神・怨霊が大暴れしている姿を想像したんでしょうね。
*山鉾巡行の先頭を行く長刀鉾の長刀の由来については7月27日の天文法華の乱のページでどうぞ>>
八坂神社などへの行き方本家HP「京都歴史散歩」 |
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コメント
もう七月かぁ。一年て早いもんです。つい先日お正月をしたと思ったら、早くも祇園祭の時期ですね。我が家の奉務する八幡神社にも末社として八坂神社があって、毎年七月六日に祇園祭やります。当社の祇園祭は氏子区内の中の一町内会だけがお参りに来るぐらいの小さな小さなお祭りです。それでも僕が小さい頃は、その町内会だけでも五十件ぐらいの家があり子供の数も多かったんで子供樽御輿の巡幸したり、婦人会のオバチャン達が散し寿司を作ってくれて、公民館で皆で食べたり、世話人のオジサン達が花火を用意してくれて、公民館横のお堂の境内で花火遊びをしたりとチョットした夏の風物詩だったんですが、昨今の過疎化・少子高齢化で町内の件数も三十件を切り子供も少なくなり樽御輿を出すことも出来なくなり淋しい限りです。
投稿: マー君 | 2008年7月 1日 (火) 10時11分
マー君さん、こんにちは~
ホント早いものですね・・・。
今年の大阪は、まだ「暑いな~」って日が少ないので実感が湧きませんでしたが、もう、7月なんですね~・・・
投稿: 茶々 | 2008年7月 1日 (火) 16時42分
日本三大祭…って色んな説がありますよ。神田祭の代りに浅草三社祭か赤坂山王祭とか深川八幡祭のいずれかが入る場合もあるし、祇園祭か天神祭りのどちらかが外れて博多祇園山笠が入る場合もあるし、東北三大祭から一つも入らないのはおかしいって事で、東北の方に行けば、距離的に遠い九州の祭が抜け、祇園祭か天神祭のどちらかと、東京三大(四大)祭のいずれかと東北三大祭のいずれかを入れて三大祭と言ってるようなので一概にindoor-mamaさんの説だけが日本三大祭と決め付けられません。
投稿: マー君 | 2008年7月 1日 (火) 17時41分
初めまして、楽しく拝読させて頂いております。別名「鱧祭り」が始まりましたね。八坂神社祭神「牛頭天王(ごずてんのう);疫病を流行らせる悪神;ゴーシールシャはインドを起源とし、佛教に取り入れられてからは祇園精舎の守護神となる。」を信仰していたのが「平安京の造営」に大きく関わった渡来人の「秦一族」であるとも聞いております。さて、話は変わりますが「出自が土岐氏の明智光秀」が信長を討つ前に愛宕山の連歌会で詠んだ歌「時は今 雨の下流しる 五月かな」は「土岐は今 天の下(天下)知る 五月かな」=土岐氏が今こそ天下をとる五月なんだ!との決意を込めたた連歌ではないでしょうか?私はそう解釈しております。これからも、楽しみにしております。どうぞ頑張ってください!
投稿: 鳳山 | 2008年7月 1日 (火) 18時47分
マー君さん、ご指摘ありがとうございます。
学校等で教えられる一般的なという意味で、神田祭と祇園祭と天神祭とさせていただきました。
察するに、現在のようにメディアが発達する以前は、全国ネットのお祭という物が少なかったのではないでしょうか?
上記の三大祭は、どなたが決められたのかは知りませんが、少なくとも一般家庭にテレビが普及する50年以上前には、すでにこの三つのお祭が三大祭と称されていたように思います。
テレビが普及し、全国のお茶の間に各お祭が映像で中継されるようになると、「あんなのよりウチのほうがスゴイ」「いや、ウチのヤツがもっと豪華だ」なんて声があがるのは当然だと思います。
現に、もっとスゴイお祭はいっぱいあります。
私的な想像ですが、かなり前に、この三つのお祭を三大祭と、決めた人は、祭の規模ではなく、その祀られる怨霊の度合いで決めたんじゃないか?と思っています。
誰が決めたのか知らないので、確かめようもありませんが・・・
投稿: 茶々 | 2008年7月 1日 (火) 22時48分
鳳山さん、コメントありがとうございます。
ご指摘の明智光秀の歌に関するお話は、6月2日の【数時間のタイムラグを埋める物は?】>>の記事へのコメントと解釈しお返事させていただきますが・・・
>土岐氏が今こそ天下をとる五月なんだ!との決意を込めたた連歌・・・
一般的には、そのように言われていますね。
ただ、光秀が連歌会を開いた5月28日のページ>>に書かせていただいたように、愛宕の連歌の会の時点で天下を意識していたのなら、なぜ?当日、信忠を同時に攻撃しなかったのかが、不思議に思い、今のところ、突発的な犯行ではなかったか?と考えているのです。
投稿: 茶々 | 2008年7月 1日 (火) 22時59分
なるほど、怨霊の強さですか…天照皇大神に反発して天界で暴れた須佐男之尊。藤原氏の謀略によって都を追われた菅原道真。関東一円に武威を張り新皇を詐称し朝廷に討伐された平将門。それぞれ怨霊としては、これ以上恐いものは無いってぐらいのパワーを発揮してますもんね。三大祭りが怨霊を鎮める祭りのランクを以て決定されたなら、茶々さんの解説どおりですね。
投稿: マー君 | 2008年7月 2日 (水) 11時48分
この記事にも書き込み失礼します。
祇園祭ですが、治承寿永の内乱が激しい1183年木曽義仲が都に迫っているという混乱の中でも、普段どおり行なわれています。
非常時でも行なわれる大切な祭なのか、非常時だからこそやらなければいけないお祭なのかわからないのですが、
とにかくそれだけ重要視されていたお祭なのではないかと思います。
投稿: さがみ | 2008年7月 3日 (木) 06時07分
さがみ様、コメントありがとうございます。
祇園祭は、応仁の乱の後も、いちはやく復活されますので、やはり京都の人にとっては重要なお祭なのでしょうね。
投稿: 茶々 | 2008年7月 3日 (木) 09時18分
茶々さん、こんばんは!
さて、記事にTBしました!
今年の祇園祭も残すところあと2週間ですね。(正直、6月1日に関係者の皆さんが祇園祭を創めよ、と命じた天皇である円融天皇陵に参拝する時点から始まってはいるんだけど…)
僕は“祇園町の祇園祭”である花傘巡行に出向こうと思ってます。(御旅所にお札も返さんといかんし…)
投稿: 御堂 | 2008年7月18日 (金) 02時32分
御堂さん、コメント&トラバありがとうございました~
「6月1日から始まってる」とおっしゃる所といい
「花傘巡行に出向く」とおっしゃる所いい・・・
かなりツウでいらっしゃる・・・
宵山と山鉾巡行が一般的で、祇園祭はこの4~5日間だと思ってる人も多いよういですが、実はこの花傘巡行が一番、もともとの御霊会に近い形だと言われていますよね~。
先日、『日本人の常識クイズ』的な番組で、諸説ありとは言いながらも、山鉾巡行が終った後の祇園祭はつまらないので、『あとのまつり』という言葉が生まれて、「時すでに遅し」みたいな状況を『あとのまつり』と言うようになったなんて言ってましたが、「ヒドイ」とブチ切れそうになりました。
京都の人は、どう考えても「あとのまつりがつまらない」なんて事言わないような気がするのですが・・・完全に他の地方の目線での口ぶりだと思ってしまいましたが・・・
投稿: 茶々 | 2008年7月18日 (金) 10時18分
茶々さん、こんばんは!
京都人の目線って、他国者にはなかなか説明できないし、上手く伝わるかどうかもわかりませんよね。
たとえば、金閣や東西本願寺のようなきらびやかさを好む人には、“本当の京都”の象徴である龍安寺や慈照寺などの禅寺にみられるような“侘び寂び”の境地を感じる、といった精神性は望めないでしょう。
銀閣に銀箔があったかどうかという話題がありましたが、銀閣=元は東山山荘は、苔寺をモデルに足利義政が当時の河原者であった被差別部落の庭師たちと共に考案された日本家屋のルーツともいうべき建築作品。
銀箔というきらびやかさは、侘び寂びという精神性の表現には何ら必要もありませんよね。
さて『あとのまつり』についてですが、確かにひどい説明ですね。僕もブログの方で書きましたが、祇園祭は、元々17日が先の祭りとして、24日が後の祭りとして、山鉾巡行が2度に分けられて催されていたのですが、私的な事情(京都府警さんが2度の出動はいややという…笑)から、17日の1日1度きりに変わってしまったわけです。それが昭和41年(1966)のお話―
それで、無くなってしまった後の祭りの代わりに花傘巡行が始まったわけです。
それ故に、語源だけで祇園祭が由来―と決め付ける事はできないんですよね。(まぁそういう場合の逃げ口上としての「諸説あり」でしょうけど…笑)
投稿: 御堂 | 2008年7月18日 (金) 22時33分
御堂さん、こんばんは~
京都府警さんの私的な事情というのは、知りませんでした・・・
んん?・・・って事は、それまでは山鉾巡行が二回行われていたわけですから、先の祭と後のまつりには差はない・・・という事になるわけで、だとしたらこの番組の説明に従えば、『あとのまつり』という言い回しは、昭和四十一年以降にできた言葉という事になってしまいますね~
『豚もおだてりゃ木に登る』と同じくらい最近の諺という事になってしまいますが・・・そんなに新しい物だったんでしょうか?
ますますわかりません。
番組では、祭=山鉾巡行のように言われていましたが、もし、祇園祭が『あとのまつり』の語源だったとしても、その場合の祭とは、きっと祇園祭全体の事を指しているんでしょうね。
まぁ、諸説あるでしょうが・・・テレビでやると、信用してしまうからなぁ・・・
投稿: 茶々 | 2008年7月18日 (金) 23時21分