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2008年7月22日 (火)

斬り込み隊長・築城名人~藤堂高虎の転身

 

文禄四年(1595年)7月22日、豊臣秀吉が、藤堂高虎を伊予宇和島7万石で大名に復帰させました・・て事で、今日は藤堂高虎さんのお話を・・・

・・・・・・・・・・・

初め14歳で近江(滋賀県)浅井長政に仕えた藤堂高虎(とうどうたかとら)は、その人並みはずれた体格と槍働きで、姉川の合戦において名をあげます。

しかし、浅井氏滅亡後は、新しい主君とうまくいかなかったり、つまらない事で同僚とケンカしたりして、転々と主君を替え、不遇の浪人生活を送っていました。

Toudoutakatora600ats そんな彼に転機が訪れたのは、天正四年((1576年)・・・あの豊臣(羽柴)秀吉の弟で文武に優れた名君・羽柴秀長が、300石という浪人としては破格の高禄で、彼を大抜擢してくれたのです。

その評価に応えようと、主君絡みの戦にはすべて参戦し、自慢の槍で先頭を切って大活躍し、武功をあげていきます。

さらに、合戦ばかりではなく、それまではあまりやらなかった帳簿の整理などの事務仕事にも励み、苦手分野はその技術を習得するまで、粘り強く修練するという頑張りようです。

後に築城の名人と称されるのも、主君の期待に応えたいという彼の努力のたまものであったのでしょう。

やがて、高虎は、秀長の片腕と言われるまでに成長し、紀州(和歌山県)粉川2万石の城主にまで出世します。

しかし、彼の才能を見いだし開花させてくれた主君・秀長は、天正十九年(1591年)に病死してしまいます。

秀長亡き後は、養子で後継者となった羽柴秀保(ひでやす)後見人として仕えますが、この秀保も、その四年後にわずか17歳で急死してしまい(1月27日参照>>)、高虎は、二人の菩提を弔うために、剃髪し高野山へと入ります。

二人の菩提を弔うため・・・というのは、名目で、実はこの秀保さんの急死には、かなりの疑惑が渦巻いているのです。

秀保は、秀長の養子という事ですが、まったくの他人ではなく、もともと叔父と甥の関係・・・秀吉・秀長兄弟のさらに上のお姉さん・ともさんの子供なのです。

つまり、一時は秀吉の後継者とされながらも、謀反の罪で自刃に追い込まれた、あの豊臣(羽柴)秀次(7月15日参照>>)の弟になるわけです。

彼も、兄・秀次と同じように、罪の無い領民を娯楽のために殺害したとか、暴君の王道である妊婦の腹を裂いたなどと言われますが、この手の話がでっち上げである可能性が高いのは、ご承知の通り・・・。

その死因に関しても、公式には天然痘の悪化であるとされながらも、別のところには殺されたという記録もあり、かなり臭います。

亡くなった時期も秀次と同じ頃ですから、どうやら、秀保も豊臣家の後継者争いに巻き込まれていた可能性があるのかも知れません。

高虎の高野山入りも、そんなゴタゴタから逃れたいがための出家だったのかも知れません。

しかし、そんな優秀な人材を、そのままにしておかないのが、かの秀吉・・・文禄四年(1595年)7月22日高虎を伊予(愛媛県)宇和島7万石で召抱え、大名に復帰させたのです。

秀吉の傘下となった高虎は、直後の慶長の役(11月20日参照>>)でも、第六軍として参加し、水軍を率いて武功をあげるとともに、その築城技術も遺憾なく発揮します。

さらに、遠征の途中で秀吉が亡くなり、大老であった徳川家康から撤退命令が出ると、その10万の大軍を、自らの船でピストン輸送し、わずか3ヶ月で完全撤退させました。

これらの功績を高く評価したのが、その光景を目の当たりにした家康です。

評価されると、それに応えたくなるのが高虎さん・・・この後は、ちゃっかりと家康傘下に収まり、関ヶ原を前にした不穏な空気の流れる中、諸将の動きや状況を、事細かく家康に報告するとともに、必要な時にはSPのような役目もこなしています。

関ヶ原の合戦当日には、左翼の先頭・福島正則の後方に陣取り(関ヶ原の合戦・布陣図参照>>>別窓で開きます)、この頃からその正則とともに、徳川の斬り込み隊長として合戦の先陣をいくようになりますが、この関ヶ原での功績は、何と言っても、小早川秀秋の横にいた脇坂安治朽木元綱小川祐忠赤座直保らの4隊を寝返らせた事にあるようです。

同じ近江出身者として、彼らを説得したのが、高虎だったと言われ、合戦後は、伊予今治20万石にup!さらに、津城主にもなっています。

その後の大阪の陣では、河内路の先鋒として長宗我盛親(ちょうそかべもりちか)と戦い(5月15日参照>>)、大坂城総攻撃の時には、真田幸村から家康を守り、家禄は32万4千石にまで上りつめました。

築城においても、江戸城の大修復をはじめ、豊臣滅亡後の新生大坂城の設計、徳川将軍家の菩提寺である上野の寛永寺や、あの東照宮も・・・と、大いにその腕を奮います(6月11日参照>>)

晩年の東照宮造営や二条城の拡張工事の時には、眼病を患い、すでに失明寸前だったと言われていますが、病に倒れ、動けなくなるその日まで、彼は現役を貫き寛永七年(1630年)10月5日75歳で、その生涯を閉じました。

若い頃は、武勇ばかりが先走り、世渡り下手で次々と主君を替えた高虎・・・秀長という名君に仕えるうち、その槍よりも強い味方となる世渡り上手という武器を手に入れ、秀吉から家康へ見事に渡り歩いたのです。

世は戦国・・・一人の主君に命をたくすも武士、渡り歩いて生き残るも武士なのです。
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コメント

お久しぶりです!
元気ですか!
高虎さんは、朝鮮出兵の水軍将でしたよね。
私も高虎夫婦の海水浴イラストを描いたんですよ。
私のブログに5月31日記事のイラストがありますよ。
既に海開きやね。また、私の毎日更新ブログも遊びに来てくださいね。

投稿: sisi | 2008年7月22日 (火) 23時00分

sisiさん、こんばんは~

いやはや暑いですねぇ

ギラギラ太陽に、高虎嫁の真っ赤なビキニ・・・夏には似合いますね~

投稿: 茶々 | 2008年7月23日 (水) 00時43分

有能な家臣を持たなかったけど伊勢32万石・譜代待遇にまで躍進したから、自身の腕1つで一国一城の主になったと言えますね。ちょうど上杉景勝の反対の経歴ですね。兼続ファンの人ごめんなさいm(_ _)m
やや飛躍的ですが、1590年代の日本の「キャスティングボート」を持っていたと最近思います。関が原の戦いで東軍兵力の3分の1は、藤堂が「調達」したと思うんですね。

投稿: えびすこ | 2010年7月20日 (火) 10時21分

えびすこさん、こんにちは~

来年の大河での活躍が楽しみな人ですね。

投稿: 茶々 | 2010年7月20日 (火) 13時13分

ちょうど24・31日と大河ドラマで放送する頃ですね。秀保は事故死と聞いた事がありますが、暗殺説もあるんですか?
1595年は江さんが徳川秀忠と結婚した年なので、前か後は不明ですが結婚のうわさを聞いて、大名に復帰したと言う可能性(慶長以後の経歴を見ると、豊臣家の先行きは暗いと考えていたのか?)もなくはないですね。
江さんはかつての主君の三女なので。
そう考えると淀と江さんは、藤堂高虎の(キーマンとしての)「奪い合い」をしたとも言えますね。

投稿: えびすこ | 2011年7月22日 (金) 09時39分

えびすこさん、こんにちは~

自分が見てないだけかも知れませんが、高虎がドラマに出るのは珍しい気がするので、楽しみです。

投稿: 茶々 | 2011年7月22日 (金) 11時21分

番組を見ていないんですか?最近、「番組の総評」がなかったのはそれなんですね。
実は藤堂高虎はまだ出ていないんですよ。あと17日の放送は男性が合計で5分程度しか出なかったんです。
「延び延び」になっている関ヶ原の戦いの場面はしっかり放送するかな。

投稿: えびすこ | 2011年7月22日 (金) 13時10分

えびすこさん、

「江」は見てますよ。

「すべての時代劇を見ているわけではない」
という意味です。

なので、
「自分が見ていないところで高虎が出ているかもしれないけれど、自分はあまり見た事が無いので…」

「高虎がドラマに出るのは珍しい気がする」
と言いたかったのです。

「江」は見ないわけにはいきません(笑)
ある意味、大河ドラマ史に残る作品となるやもしれません。

そりゃ、ゴーストライター説が出てもしかたがないなぁ…と思うくらい「篤姫」とはクオリティが違いますね。
脚本家さんは、どうしちゃったんでしょ?
頑張ってほしいです。

投稿: 茶々 | 2011年7月22日 (金) 13時24分

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