謙信VS信玄・第二次川中島の合戦~犀川の戦い
弘治元年(1555年)7月19日、信濃(長野県)の犀(さい)川を挟んで対峙していた上杉謙信と武田信玄の軍が激突・・・第二次川中島の合戦と言われる『犀川の戦い』がありました。
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天文二十二年(1553年)4月に、上杉謙信の支援を受けて、武田信玄に奪われていた葛尾(かつらお)城を奪回しようと、更級八幡に布陣していた武田軍の先鋒を襲撃した村上義清・・・(更級八幡の戦い・4月22日参照>>)
更に発展した戦いは、ここに来て本腰を入れ始めた戦国屈指のライバル・信玄と謙信との間で、5ヶ月後の9月~10月にかけて繰り広げられました・・・(布施の戦い・9月1日参照>>)
決着がつく事がなかったその戦いの翌年、信玄は、駿河(静岡県・東部)の今川義元と、相模(神奈川県)の北条氏康と、それぞれの息子・娘同士の婚姻関係による『甲相駿・三国同盟』を結びます(3月3日参照>>)。
これで、心置きなく謙信と戦う事ができます。
まずは、謙信の家臣で北条(きたじょう)城・城主の北条高広(きたじょうたかひろ)に密使を送り、誘いをかけます。
信玄の誘いに応じた高広は、12月に挙兵(北条高広の乱)・・・しかし、この時は救援が間に合わず、翌年の弘治元年(1555年)2月には乱は鎮圧されてしまいます。
信玄は、更なる切り崩しを図ろうと、今度は善光寺の別当・栗田鶴寿(かくじゅ)に接近します。
信濃北部の領民たちの信仰を一心に集める善光寺を取り込めば、その領民たちの心を掴むのも、より簡単になりますから・・・。
それから間もなく、鶴寿は武田方につきます。
しかし、仏教に帰依し、天皇からの許しも貰い、「我こそは正義」と思っている謙信(4月27日参照>>)に、この状況が見過ごせるはずはありません。
4月、謙信は、8千の兵を率いて、善光寺奪回のために動き始め、善光寺の北西に位置する場所に葛山(かつらやま)城を築き、そこに陣を敷きます。
一方の栗田勢は、善光寺の南側に位置する旭山城に籠り、応戦態勢・・・それを知った信玄は、すぐに旭山城に、鉄砲300、弓800を含む3千を援軍として派遣し、自らも出陣の準備を始めます。
やがて、7月に入って、謙信よりも多い1万2千の軍勢を率いて信玄が到着・・・犀川の南岸に陣を敷きます。
犀川を挟んで北と南・・・対峙する謙信と信玄でしたが、弘治元年(1555年)7月19日、上杉軍が犀川を超え、武田軍を襲撃する形で衝突が始まったのが、第二次川中島の合戦=犀川の戦いです。
・・・が、この日の合戦の戦況などは、あまり詳しく記録されておらず、決着がつかないまま、お互いが後退したようです。
現存する感状などを見る限りでは、上杉軍の襲撃の後、武田軍が逆襲に成功し、武田のやや優勢で終ったとの見方がされています。
その後は、信玄が支援する旭山城の防御体制がさらに強化され、謙信も、うかつに手が出せない状況となり、戦況は、100日・・・150日と、長期のにらみ合いとわずかな小競り合いへと突入する中、徐々に両者に疲れが見えはじめてきます。
やがて、双方の兵糧も尽きはじめた閏10月15日、今川義元が仲介に入り、両者の講和が成立します。
講和の条件は、信玄が旭山城を破却して撤退し、さらに、北信濃の国人衆の旧領を回復するという信玄にとっては、いたって不利な物・・・しかも、善光寺の本尊や仏具を、謙信の春日山に移したというのですから、この条件を見る限りでは、第二次川中島の合戦は、謙信の優勢に終ったといった感じでしょうか。
ただし、この合戦の最中に、信玄は別働隊を木曽に派遣し、木曾義昌(よしまさ)を降伏させていますので、そちらでの勝利をヨシとし、こちらの戦いが、さらに長引くのを避けたかったのかもしれません。
こうして、第二次川中島の合戦=犀川の戦いは終わりました。
この後、謙信は突然、「出家する」と言って高野山へ向かい(6月28日参照>>)、信玄は講和を破って北信濃へ侵出するという、両者まったく違った行動に出る事に・・・
結局、家臣の取りなしで、出家を思い留まった謙信は、信玄の裏切り行為に激怒し、両者の戦いは、第三次川中島の合戦=上野原の戦い(8月29日参照>>)へと発展していく事になります。
越後の龍と甲斐の虎・・・ふたりのライバル関係は、更なる展開に・・・
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