« 長宗我部元親・土佐統一!四万十川の戦い | トップページ | 曹洞宗の開祖・道元~永平寺を建立 »

2008年7月17日 (木)

病死か?毒殺か?織田信包・疑惑の急死

 

慶長十九年(1614年)7月17日、織田信長の弟・織田信包が、大坂城内での会議中に急死・・・72年の生涯を閉じました。

・・・・・・・・・

あの織田信長の9歳年下の弟・織田信包(のぶかね)・・・派手な信長さんに比べて、何となく目立たない、影が薄い気がする人なのですが、それは、、ひとえに、彼の性格によるところ・・・。

燃え盛るような激しさを持つ信長に対して、信包は正反対の穏やかで争いを好まない人だったようです。

だからと言って、武将としてダメな人ではなく、むしろデキる男・・・信長以外は、フツーの人が多い織田家の中では、優秀な人物と言えるでしょう。

Odanobukane600at そんな信包の優秀さを、ちゃんと信長さんも認めていて、大事な後継ぎ・信忠補佐役を任せていますし、彼も、それに答えるように、兄の一番の理解者であり、協力者でありました。

あの伊勢平定にもつき従い、伊勢上野城を居城とした後、天正八年(1580年)には、津城を築城し、そこを居城としていました。

信長が本能寺で倒れた後は、上記の性格ゆえ、野望を抱くという事もなく、後継者争いに顔を出す事もなかったせいか、すんなりと豊臣(羽柴)秀吉の傘下となり、領地を安堵されるどころか、むしろ加増されて15万石の大名になっています。

しかし、今度は、その争いを好まない性格が仇となってしまいます。

あの小田原征伐の直後、敵将の北条氏政・氏直父子の助命という北条側の嘆願を、そのまま持ち帰った事で、秀吉が激怒してしまうのです。

おかげで津城も、その15万石の領地も没収され、近江2万石に転封され、謹慎処分に・・・。

ところが慶長三年(1598年)、いきなり丹波(兵庫県・北東部)3万6千石を与えられ、見事大名に返り咲きます。

それは、やはり信包の優秀さを秀吉が認めていたからなのでしょう・・・慶長三年と言えば、そう、秀吉が亡くなった年です。

日に々々老いを感じ、もう、あまり長くないのでは?と悟った秀吉が、信包を大名に復帰させ、そして、遺言として、息子・秀頼の補佐役に彼を任命するのです。

やがて起こった関ヶ原の合戦でも、彼は西軍に属し、1万5千の兵とともに、細川忠興の居城・丹後(京都府・北部)田辺城(7月21日参照>>)を攻撃しています。

この時は、ご存知のように、忠興は、徳川家康とともに、会津征伐の名目で東国に行っていて留守・・・城の守りは手薄でした。

ただ、留守を預かるのが文武両道に長けた忠興の父・細川幽斎だったためか、なかなか落す事ができず、結局、朝廷の仲裁によって田辺城は開城されました。

しかし、信包が参戦したのが、この田辺攻めのみだったせいか、合戦後も、その罪を問われる事はなく、領地は安堵、秀頼の補佐役というのも、家康公認のもとで続けていく事になるのです。

そのまま補佐役として大坂城にいた信包・・・運命の慶長十九年(1614年)7月17日大坂城内での会議中に突然血を吐き、そのまま帰らぬ人となってしまうのです。

慶長十九年7月17日と言えば、大坂の陣のきっかけとなった、あの『方広寺鐘銘事件』(7月21日参照>>)・・・家康が豊臣家にイチャモンをつける4日前の出来事です。

以前、『加藤清正疑惑の死』(6月24日参照>>)でもチラッと書かせていただきましたが、関ヶ原の後、次々と豊臣恩顧の武将がこの世を去っていく中、慶長十七年(1612年)頃から、なぜか写経を趣味としだした家康が、翌年の慶長十八年には、キッパリとその趣味を止めてしまった・・・つまり、それまでは、何となく「そうしたいなぁ」という程度だったのが、ここで、はっきりと豊臣を潰す決意をしたのだとも考えられます。

そして、家康は、その潰す口実を探しはじめる・・・それは、いずれ豊臣方にも読めてきます。

ひょっとしたら、先の大坂城内での会議は、来るべき大きな戦の対応策を話し合う会議だったかも・・・

信包は、その来るべき合戦でも、重要な任務を帯びていたと推測できます。
そんな彼が突然の死です。

当然のように囁かれる毒殺説・・・その犯人は片桐且元(かつもと)(片桐さんについては8月20日参照>>)だとも言われています。

しかしながら、犯人はもちろん、その死因さえ、未だはっきりとはしていません。

毒殺か?病死か?

信長と秀吉・・・二人の天下人から、その後継者の補佐役を任された頼れる男・信包・・・その真相は神のみぞ知るといったところでしょうか。
 .

あなたの応援で元気でます!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 


« 長宗我部元親・土佐統一!四万十川の戦い | トップページ | 曹洞宗の開祖・道元~永平寺を建立 »

家康・江戸開幕への時代」カテゴリの記事

コメント

確かに不可解な死ですねぇ然し、彼一人の生死で大勢に影響が出るとも思えません。三万六千石程の小領主じゃ兵力も知れてますし、信長の弟と言っても、当時既に信長の威光など無いに等しく、彼一人生きて居たとて…いずれ天下は徳川の物になっただろうに、大阪の陣の直前の信包の死は何を意味してるのか大いに興味をそそられますね。

投稿: マー君 | 2008年7月18日 (金) 00時09分

マー君さん、こんばんは~

大勢に影響が・・・というよりは、何かの処分のような気もします・・・臭いますねぇ

投稿: 茶々 | 2008年7月18日 (金) 00時34分

この時期は徳川譜代の武将も相次いで亡くなっているので伝染病が流行った疑いもあるんじゃないかと。

投稿: | 2011年2月 3日 (木) 14時41分

こんにちは~

なんか、徳川に都合よく死んでいく感があって、ついつい疑いたくなっちゃいますね~

おそらく、事実はもっと単純な物だと思いますが…

投稿: 茶々 | 2011年2月 3日 (木) 15時25分

72歳で亡くなっているので、当時では天寿(老衰)をまっとうしたと思いますが、大坂の陣の前に死んだ人はいろいろと疑惑がありますね。
今年の大河ドラマでは時々登場しますが、前回の放送では佐治一成と酒を飲んでいました。秀吉に「佐治」を投げられて、離縁させられた江さん。今月も波乱が多くなりそうです。
向井くんが「江」の救世主になる(2つの意味で)日は近い?

投稿: えびすこ | 2011年5月 1日 (日) 08時56分

えびすこさん、こんにちは~

そうですね~
あとは、向井くんの登場を待つばかり??かな

投稿: 茶々 | 2011年5月 1日 (日) 16時52分

織田信長の弟である、織田信包の謎の急死については、少しだけ聞いたことがあります。どういう訳か、突如として血を吐いて急死してますから、それ故に、毒殺の噂が囁かれたのかもしれません。もしかしたら、信包が死去したのは、結核が原因のような気がするのです。というのは、結核は、血を吐くことが多い病気という印象があるからです。もちろん、私の想像なので、本当のところは分かりません。ただし、信包の身に、不幸が降りかかったのは間違いないと思います。


投稿: トト | 2017年3月 4日 (土) 19時11分

トトさん、こんにちは~

タイミングが良すぎて、謎が多いですね。

投稿: 茶々 | 2017年3月 6日 (月) 15時55分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 病死か?毒殺か?織田信包・疑惑の急死:

« 長宗我部元親・土佐統一!四万十川の戦い | トップページ | 曹洞宗の開祖・道元~永平寺を建立 »