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2008年7月29日 (火)

花火の歴史

 

昭和五十三年(1978年)7月29日、両国の花火大会隅田川花火大会と名称を変更して十七年ぶりに復活しました。

今年の隅田川花火大会は7月26日で、もう、過ぎてしまいましたが、夏の風物詩で季節もバッチリという事で、今日は、花火の歴史についてお話させていただきます。

・・・・・・・・・・・

花火の歴史は・・・紀元前3世紀頃の中国で発明された火薬が、やがての頃には、戦いのための武器や、通信手段の烽火(のろし)として使用されるようになります。

日本に伝わったのは、約400年前の戦国時代末期

  • 櫟木民部大輔という人物がインドネシアから輸入した・・・
  • 種子島に伝わった鉄砲の火薬が花火に変化した・・
  • 慶長十八年(1613年)に伊毛達須なる中国人が伝えた・・・

と、複数の話がありますが、この慶長十八年には、あの徳川家康が、日本で初めて花火を観賞したという記録もあるので、いずれにしても、この頃に伝わった事は確かでしょう。

家康さんが見た花火というのは、今も、愛知県豊橋市に残る『炎の祭典』・・・降りそそぐ火の粉に耐えながら手で筒を抱えて・・・っていう手筒花火のような物だったと言われています。

翌年の大坂冬の陣では、例の淀殿もびっくりの天守閣直撃の大筒を、家康さんは披露しています(12月16日参照>>)から、さぞかし、花火には興味津々だった事でしょう。

Hanabi600 戦いの道具として発展した花火も、やがて、天下泰平の世となるにつれ、娯楽のためにと変化していきます。

まずは、線香花火・・・そしてねずみ花火などが誕生し、江戸時代の中期になって、それは飛躍的な発展を遂げるのです。

やがて享保十八年(1733年)5月28日、水神祭とともに、両国川(現在の隅田川)の川開きが行われ、その時に約20発の花火が打ち上げられます。

その時に活躍したのが、六代目・鍵屋弥兵衛さん・・・日本橋横山町の花火師でした。

この弥兵衛さんのご先祖の初代・弥兵衛さんが御兵御殿の狼烟方(のろしかた)の打ち上げをヒントに花火を造って売り出したのが最初だったのですが、もう、この六代目さんの頃には、花火は鍵屋の独占状態・・・

もちろん、それには、鍵屋さんの技術のすばらしさもありましたが、何より、「火事の原因となる花火を、あっちこっちでされては困る」って事で、江戸市中では、隅田川のみが、花火の場所とされ、「花火=鍵屋」というのも、この頃に定着しました。

やがて、文化五年(1808年)に、鍵屋の番頭であった清七さんが、のれんわけとして両国吉川町で、花火師を開業・・・こちらが玉屋となります。

名前は、もともとお稲荷さんを信仰していたことから、お稲荷さんの2匹駒狐が、鍵と玉をそれぞれくわえている事に由来するそうです。

花火の時に「たまや~」「かぎや~」と声をかけるのも、ここからきてるんですね~。

両国では、上流で玉屋、下流で鍵屋が花火を打ち上げ、両者が、花火のワザを競っていたところから、それぞれを応援する見物客が、声をかけはじめたんだそうです。

でも、さすがは江戸・・・大阪生まれの私は、長年、この「たまや~」「かぎや~」のかけ声の事を知りませんでした。

サザエさんで、浪平さんが、花火を見ながら叫んでいたのを初めて見て、「何?」と、不思議に思ったくらいですから・・・

ところで、大阪ではほとんど聞かないので、あくまで小耳に挟んだ情報ですが、今では「かぎや~」と声をかけるより、「たまや~」と声をかける人のほうが断然多いらしい・・・

それは・・・
実は、玉屋さん・・・大きな火事を起こしてしまったために、江戸所払いとなり、花火師は一代限り、わずか35年間で終ってしまったのです。

その技術が素晴らしかっただけに、江戸の町の人々の涙を誘い、日本人の持って生まれた、いわゆる判官びいきの心をくすぐられ、「たまや~」と声をかける人が多かったのだとか・・・。

ちなみに、鍵屋さんのほうは、今も健在・・・十五代目の女社長さんが、後を継いでおられるそうです。

ちなみに、「花火」は、
英語でfirework」
中国語で「焰火」
韓国語で「불꽃」
フランス語で「feu d'artifice」
スペイン語では「Fuegos artificiales」
と、いずれも「炎そのもの」「火で(芸術的な)仕事をする」という意味の言葉で表現され、日本のように、アレを「空に咲く花」に例えるのは珍しいのだとか・・・

もちろん、夏の風物詩というのも・・・
ほとんどの国が、フェスティバルや新年の祝賀などで花火をあげるのが一般的なのだそうです。

とにもかくにも、
ITの時代になろうが、子供たちがテレビゲームに熱中しようが、いつの時代も、花火は、夏の風物詩・・・これだけは、室内では、味わえないですから・・・。

とは言え、有名な花火大会ともなれば、花火もスゴイけど人の多さもスゴイ・・・なかには、終電で帰れないや渋滞で車が動かないなんて事もあるので、お出かけの際はお気をつけて・・・。
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コメント

鍵屋の社長さん、見物人の多くが『たぁ〜まぁ〜やぁ〜』って掛け声を上げてる現状に複雑な思いを抱いてるんじゃないでしょうか?玉屋が潰れてたとは知りませんでした。僕は反対に鍵屋が潰れてしまったから、玉屋の掛け声ばかりなんだと思ってました。玉屋を偲んでの掛け声って事ですが、今となっては…玉屋が無くなってから二百数十年、江戸の花火大会を守り続けてきた鍵屋の掛け声が少ないのは可愛そうな気さえしてきました。という事で僕は逆判官贔屓で今後東京の花火大会を見る機会が有れば、その時は『かぁ〜ぎぃ〜やぁ〜!』と声を上げる事にしました。

投稿: マー君 | 2008年7月29日 (火) 09時21分

マー君さん、こんにちは~

本文で書いた通り、私はサザエさんでしか、この掛け声を聞いた事がないんですが、やっぱり東京の人は、「たまや~」が多いんでしょうかね?

でも、確かに、これだけ長くその技術を伝えてこられた鍵屋さんもスゴイ・・・

投稿: 茶々 | 2008年7月29日 (火) 16時13分

江戸時代の戯歌に…橋の上、玉屋・玉屋の声ばかり、何故に鍵屋と、言えぬ(情)錠なし。ってのが有るそうです。当時から花火の掛け声は玉屋ぁ〜ってのが断然多かったようですね。後発でありながら斬新なアイデアを盛り込んだ新しい花火を世に送り出し、技術面では鍵屋を凌駕していたと言われる玉屋、不慮の事故で35年という短い期間で江戸を追われた彼らに江戸の庶民は温かい思いを寄せてたんですね。上の戯歌の大意は、花火見物に橋の上を行き交う人の掛け声は玉屋・玉屋の声ばかりじゃぁ無ぇかい。何故に鍵屋と言わねえか、そりゃあみんな玉屋に情(錠)を持ってかれちまってんだから、鍵屋だけに情(錠)が無いことには、口が開かねえ。ってな意が込められてるそうですよ。それにしても、やっぱり僕は玉屋が無くなってから江戸の花火文化を守ってきた鍵屋さんを応援したげたいです。

投稿: マー君 | 2008年7月30日 (水) 00時36分

マー君さん、こんばんは~

江戸時代の当時ならともかく、今も「たまや~」のかけ声のほうが多い事に驚きますね。

投稿: 茶々 | 2008年7月30日 (水) 02時10分

初代のひとがちがいませんか。

投稿: | 2020年10月 4日 (日) 17時59分

>初代のひとがちがいませんか。

うーんと、
鍵屋は代々弥兵衛さんですよね?

玉屋は新八さんという名も聞きますが、一般的には清七さんの方が多いと思うのですが、違うのですか?

投稿: 茶々 | 2020年10月 5日 (月) 03時34分

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