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2008年7月16日 (水)

長宗我部元親・土佐統一!四万十川の戦い

 

天正三年(1575年)7月16日、「土佐の出来人」の異名を持つ長宗我部元親が、甲浦城を攻略し、土佐統一を果たしました。

・・・・・・・・・・・

土佐(高知県)西部にある幡多(はた)は、鎌倉時代の昔から公家・一条氏所有の荘園でした。

応仁元年(1467年)に勃発した応仁の乱(5月20日参照>>)・・・京都の町を焼き尽くして繰り広げられた市街戦に嫌気がさした一条教房(のりふさ)は、早々に京都を脱出し、この幡多荘へと移り住んだのです(9月6日参照>>)

やがて、その一条氏は幡多郡の中村城(高知県四万十市)を居城とする戦国大名となるのですが、その間も、もともと出自が雅なお方の一条氏ですから、何をどうすると言った事をしなくても、この地の人々からは、「お公家大名」と呼ばれ、尊敬され続けていたのです。

ところが、教房から数えて5代目の一条兼定(かねさだ)の頃になると、この一条氏も戦国の波に呑みこまれる事となります。

この頃には、その本拠地を岡豊(おこう)に移していた兼定でしたが、度重なる失政に家臣からの信頼を失い、その地位が揺らいで来た中、登場してきたのは、宿命のライバルである本山を倒し(4月7日参照>>安芸城を攻略して(8月11日参照>>)土佐中央部を支配化に治めた長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)でした。

そんなこんなの天正二年(1574年)、とうとう兼定は、不満爆発の家老たちから隠居を迫られ、豊後(大分県)に追放されてしまうという事態になってしまいます。

絶好のチャンス!
・・・ただし、この兼定さんは、以前、元親が倒した安芸国虎の妹婿で、彼と組んで長宗我部を攻撃しようとした事もある人なので、ひょっとしたらこのチャンスは、元親の策略による人工のチャンスである可能性もありですね~。

Tyousokabemototika600 とにかく、チャンスはチャンス!
この時を逃してはならずとばかりに元親は、後を継いで当主となったばかりの兼定の長男・内政(ただまさ)と、自分の娘を結婚させます。

さらに、何だかんだとウマイ事言って、その内政を岡豊城外に住まわせて実権を奪い、もう一つの中村城には、弟の吉良親貞(きらちかさだ)を送り込み、完全に一条氏を乗っ取ってしまったのです。

そうなると、兼定さんも黙ってはいられません。

嫁の実家の大友氏や、伊予(愛媛県)の武将たちの支援を受け、「打倒!長宗我部」を掲げて挙兵・・・四万十川(渡川)の西側に陣を敷き、防護施設の構築をしはじめます。

この時の、一条軍・3500。

この異変を知った元親は、即座に兵を集め対応します・・・その数7300。
これぞ、土佐の「一領具足(いちりょうぐそく)です。

一領具足とは甲冑一式という意味で、普段は農業に勤しんでいる農民ですが、いざという時は、その甲冑一式だけを持って即座に参戦する土着の武士団の事・・・こういう風に、一声かければ、瞬時にして兵団となるのが強味でした。

四万十川を挟んでにらみ合う両軍・・・やがて、長宗我部軍が川を渡りはじめ、四万十川の戦いが開始」されます。

川を渡らせてなるものか!と、一斉に、進軍する兵に向かって弓矢を射掛ける一条軍・・・この一条軍の攻撃を確認した長宗我部軍の別働隊が、一斉に上流へと移動しはじめます。

上記の通り、兵の数で劣る一条軍は、上流から回りこまれて攻撃されてはマズイとばかりに、軍を二手に分け、半分は上流の部隊への対応に当たらせます。

しかし、これは元親の陽動作戦・・・少ない兵をさらに分散させて余裕の長宗我部軍は、やすやすと四万十川を渡りきったのです。

動揺した一条軍は総崩れとなり、2百数十名の死者を出し、散り々々に敗走してしまいました。

さらに、この勢いに乗った元親は、天正三年(1575年)7月16日甲浦城(かんのうら)を攻略し、土佐の統一に成功します

兼定は、命こそ助かりますが、戦国大名としての一条氏は、ここに滅亡する事となります。

そして、元親の更なる夢は・・・そう、四国統一ですが、続きのお話は9月21日の【ラッキーサプライズ?~長宗我部元親の阿波平定】でどうぞ>>
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コメント

土佐の統一を果たした元親さん、阿波の雲辺寺に参詣し住職に四国統一の夢を語ります。すると住職が答えて言うに、ヤカンの蓋で花器に蓋をするようなモノじゃから止めておけ。と言われます。然し元親さん負けずに言い返します。いやはや、その蓋は名人の作りたる蓋にして、いずれは天下をも塞ぐべき蓋である。とまぁこんなやり取りだったようです。そしてその言葉の通り、後年見事に四国統一を果たしました。然し中央では急速に力を付けた羽柴の秀吉さんが信長存命中からの懸案であった四国征伐に取り掛かります。結果は茶々さんもご存じのように土佐一国のみ所領安堵で、頑張って手に入れた阿波・伊予・讃岐は秀吉さんに取り上げられちゃいました。さぁ、そこで茶々さんにお尋ねします。雲辺寺の住職と元親さんの問答…どちらの言い分が正しかったと思いますか。確かに一時たりとは言え四国統一を果たしたとみなす学者さんの意見に従えば、元親さんの言い分に利が有るように見受けられます。然し、秀吉の力を見誤って…結果、土佐一国のみ所領安堵の結果に終った点を見ると、住職の言い分が正しかったとも言えます。さぁ、そこで茶々さんのご意見はどんなモンかお聞かせください。

投稿: マー君 | 2008年7月17日 (木) 00時36分

マー君さん、こんにちは~

雲辺寺の話は、いずれ書かせていただくつもりで、とっておいたんですが・・・残念!先を越されてしまいました~(笑)

この逸話は複数の文献に書かれているようなので、いくつかのパターンがあるのでしょうね。

私の知っているお話は、確か『土佐物語』だったか『南海治乱記』だったかのお話で、住職は「茶釜の蓋で、水桶に蓋をするようなものだ」と言い、元親は「俺の器の蓋は土佐の小領主から十数年で土佐全土にまで大きくしたのだから、あと何年かで、四国に蓋ができるほど大きくしてやる」と言ったというものです。

これなら、『四国に蓋ができるほど大きな蓋』という事なので、一瞬とは言え、四国全土を統一したとなれば、元親の言い分は当たったという事になるのではないでしょうか?

ただ、秀吉の器は、水桶よりも、さらに大きな風呂桶くらいだったって事でしょうね・・・元親さん、残念。

投稿: 茶々 | 2008年7月17日 (木) 06時38分

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