佐々成政の失態~肥後・国人一揆
天正十五年(1587年)7月10日、肥後・隈府城の隈部親永が、領主の佐々成政に反発して挙兵・・・肥後国人一揆が勃発しました。
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もともと織田信長の直参で、柴田勝家や前田利家とともに、信長の天下統一の北陸平定担当だった佐々成政(さっさなりまさ)・・・。
信長の死後、羽柴(豊臣)秀吉と勝家が対立した時には、富山城にありながら勝家側に、秀吉と徳川家康が対立した時には家康につき(8月23日参照>>)、さらに、極秘で家康に会うため、登山史上に残る軽装備での厳寒の北アルプスさらさら越えを決行(11月11日参照>>)・・・
と、ことごとく秀吉に反発していたわりには、命を落す事なく秀吉の傘下に入り、大幅に領地はカットされるものの、富山の新川を安堵され(8月29日参照>>)、お伽衆として生き残っていました。
その後、秀吉の九州征伐に参加した事で、肥後(熊本県)五十万石を与えられ、見事、隈本城主となって大名に返り咲きますが、この肥後領主への大抜擢が、本当に大抜擢であったのか?、はたまた、秀吉の策略による物なのか?は、微妙なところです。
・・・というのも、以前、成政さんのご命日の日のページ(5月14日参照>>)に書かせていただいたように、秀吉の正室・ねねさんとの「黒百合事件」や、富山に伝わる「黒百合伝説」などあるものの、それは、あくまで、複線であり、伝説であって、後付けの可能性も大・・・
で、史実としては、最終的に、彼が切腹を命じられる直接の原因は、この肥後の国人一揆の勃発にあるわけですが、この一揆の勃発は、どちらかというと、秀吉にとって想定の範囲内・・・予想できる事だったからです。
国人というのは、地元に根付いた大名の下に位置する武士・・・国侍、あるいは国衆とも呼ばれる人たちの事です。
領主が、中央から任命され、いきなりその地にやってくるのに対して、彼ら国人は何代も前からずっとその地に住みついて、それぞれの小国を仕切っているわけですから、お上の命令で新たにやって来た領主としては、なかなか、その扱いが難しい・・・しかも、肥後という場所は特にその国人勢力の強い場所であったために、うまく統治する事が困難である事を、秀吉は知っていたに違いないのです。
さらに、そこに、成政の性格です。
実は、この成政さん・・・信長の配下の時代には、優れた武士20人を選んで編制する「母衣衆(ほろしゅう)」の、しかも、隊長に選ばれています。
この母衣衆というのは、合戦の時に、戦いの最前線と本陣の総大将との間の連絡係の事ですが、あくまで係なので、本来の武将としての仕事もこなしつつ、弓矢や弾丸飛び交う戦場を行き来するという大変な役どころ・・・それを、彼は見事にこなし、その迅速・果敢な戦いぶりで、何度も首級をあげているのです。
これは、ひとえに成政の負けず嫌いで強引な性格の成せるワザ・・・そんな成政の性格を、秀吉は、あまり快く思っていなかったとも言われています。
快く思っていなかった・・・つまり、成政の性格を、秀吉はよく知っていたわけで、そんな強引で我の強い性格の彼を、国人勢力の強い場所へ行かせたなら、どうなるのか?
ただ、見方を変えれば、これは、秀吉の策略というよりも、成政がもう一回り大きくなる事を希望して与えた試練という事もあり得ます。
なぜなら、秀吉は、この時の成政に対して・・・
「統治の難しい所だから、じっくりと時間をかけて・・・三年間は、国人たちの領地を安堵し、検地も行わないように」
と、アドバイスしているからです。
しかし、人の性格という物は、なかなかすぐに変えられないものです。
成政は、その性格通り、強引に、そして迅速に、国人たちを支配下に納めようと、秀吉のアドバイスを無視して、すぐさま国人たちの領地の一部を削減し、検地を開始してしまうのです。
かくして、天正十五年(1587年)7月10日、国人の一人・隈府城の隈部親永(くまべちかなが)が、成政に反発して挙兵しました。
それを知った他の国人たちも次々と挙兵し、一揆に発展したその兵力は総勢3万となり、成政の居城・隈本城を囲みます。
9月になって、隈本城を助けるすべく、筑後(福岡県)柳河城主・立花宗茂が援軍を派遣しますが、成政軍と宗茂軍の両方を合わせても1万にもならない状態で、とても一揆軍をけちらす事はできず、さらに隈本城は孤立してしまいます。
結局、この始末は秀吉が着けねばならなくなり、秀吉は四国や九州の大名を総動員して編制した一揆鎮圧軍を出す事になります。
10月下旬には、この鎮圧軍に毛利輝元が加わり、一揆軍の拠点である田中城を包囲すると同時に、寝返り工作を仕掛けて、切り崩し作戦を実施します。
やがて、12月2日、最初の反逆者であり、一揆の中心人物であった親永が降伏し、事実上一揆は終わりを迎えたのです。
難しい場所とは言え、その期待を裏切って、最終的には、秀吉の手をわずらわす事になってしまった成政・・・その責任のとりかたは、切腹しかありませんでした。
そして、その後の肥後は、小西行長が南部、加藤清正が北部の領主となり、その時、清正の入った隈本城は、後に熊本城と名を変え、天下の名城と呼ばれる事になります。
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コメント
茶々様
はじめまして
けんしろうと申します。
ブログを拝見いたしました。
とても細かく調べられているのですね。
佐々成政の晩年というものを初めて知りました。
また訪問して参考にさせてください。
よろしくお願いいたします。
投稿: けんしろう | 2008年7月10日 (木) 21時04分
その秀吉のアドバイスこそが最大の策略だったとも言われてますね。信長亡き後…一度ならず二度三度と幾度も反旗を翻した相手を高禄を以て遇するなど、考え難いですからね。
投稿: マー君 | 2008年7月10日 (木) 22時32分
けんしろうさん、はじめまして、コメントありがとうございます。
調べてる・・・というか・・・
恥ずかしながら、ホントは歴史の本が好きなのと、知った事は誰かに話したくてしかたがないオシャベリが相まって、ご覧のような結果になってしまっておるのでございます
(#^^#)
よかったら、まだ、覗きにきてくださいませ
投稿: 茶々 | 2008年7月11日 (金) 00時21分
マー君さん、こんばんは~
ただ、敵だった相手を、うまく使いこなすのも秀吉の手法の一つではないかと・・・
うまくいったら儲けもん
失敗しても、もともと敵だったヤツだし・・・
てな感じだったのかも知れませんね。
関ヶ原後の山内一豊も、国人勢力の強い土佐を任されますから、この時代の常とう手段だったのかも知れません。
投稿: 茶々 | 2008年7月11日 (金) 00時26分
はじめまして。
ここに登場する検地不可の話、最近では無かった事と言われていますね。
成政だけでなく、黒田孝高や小早川隆景も同じ様に一揆で窮地に追い込まれていますが、成政の様な罰はまっていませんでした。
なぜそんな差が出来たのか?
事の顛末を調査・報告したのは、後に肥後を治めた加藤清正と小西行長。
つまり、最近ではその報告書に問題があったという説が強まってます。
支配領土が増えるに従って家臣もふえていく。しかし、それ故に分けられる領土は減って行く。
そんな時代背景の過程にあった悲劇ではないでしょうか。
その後の秀吉の行動・判断をみても、秀吉を取り巻く人・環境に成政の不運があったと、私も思います。
信長の時代でも、荒木村重の意味不明な行動(謀反)の裏には、譜代と外様、出身地による差別・虐めが蔓延っていたとも言われますし。
投稿: 今太 | 2008年7月15日 (火) 08時16分
今太さま、コメントありがとうございます。
成政の処分が厳しすぎるという事に関しましては、このペ-ジではなく、5月14日のご命日のページに書いております。
やはり、これだけ反発してきたのですから、いざという時に捨て駒にされるのもわかる気がします。
ところで・・・
>検地不可の話、最近では無かった事と言われています・・・
その無かったというお話は、どなたの説で、どの文献に書いてあるのでしょうか?
教えていただければ幸いです。
投稿: 茶々 | 2008年7月15日 (火) 11時08分