齢77!芸は身を助く~細川幽斎の長寿の秘訣
慶長十五年(1610年)8月20日、細川幽斎が京三条屋敷にて、77歳の生涯を閉じました。
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つい先日、79歳でお亡くなりになった朝倉宗滴さん(8月13日参照>>)をご紹介した時に、亡くなる2~3週間前まで、合戦の最前線で活躍し、生涯現役を貫いたのが、長寿の秘訣ではないか?と書かせていただきました。
しかし、今日ご紹介する細川幽斎(ゆうさい・藤孝)さんも、宗滴さんとは、正反対の人生を送りながらも、77歳という、戦国の当時としては、かなりのご長寿さんです。
では、幽斎さんの場合の、長寿の秘訣は何だったのでしょうか?
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細川幽斎は、室町幕府に仕えた三淵晴員(みつぶちはるかず)の次男として生まれますが、6歳の時に叔父である細川元常の養子になり、後に義輝と名を変えて第13代室町幕府将軍となる義藤の一字をもらって、細川藤孝と名乗ります。
実は、この幽斎さん、第12代室町幕府将軍・足利義晴のご落胤だったという噂もあり、そうなると、13代の義輝と、その弟・義昭とは兄弟の間柄になるわけで、この名前の事を考えると、ひょっとして?という気がしないでもありません。
その後、将軍となった義輝に仕えますが、永禄八年(1565年)に、その義輝が暗殺されると、幽閉状態にあった弟・義昭を救出し、朝倉義景を頼って越前(福井県)へ逃れます。
そこで、何とか義昭を将軍にできないものかと奔走していたところ(やっぱ兄弟かも・・・)、朝倉に仕えていた明智光秀を通じて織田信長にめぐり会い、例のごとく、信長が義昭を奉じて上洛し(9月7日参照>>)、見事、義昭さんは15代将軍の座を射止めます。
しかし、義昭と信長の仲がしっくりいかなくなると、あっさりと将軍に見切りをつけて信長に仕え、明智光秀の傘下に収まります。(やっぱ、兄弟じゃないのかも・・・)
そして、光秀とともに石山合戦などで大いに活躍するかたわら、息子・忠興の嫁に、光秀の娘・お玉(ガラシャ)を迎え、その関係をより強固な物にしますが、ここで、勃発したのが、あの本能寺の変(6月2日参照>>)です。
さぁ~て!困ったー
現に、細川家と同じく、光秀の娘を妻にしていた津田信澄は、信長の息子・神戸信孝に、その関与を疑われ、襲われちゃいました~。
さらに、光秀からは「味方になってぇ~」と、涙まじりの再三のお誘い・・・。
・・・と、ここで、名を藤孝から幽斎へと改め、信長への弔意を示す意味で剃髪して、即座に隠居・・・家督を息子の忠興に譲って、嫁のお玉を丹波の山中に幽閉し、あっさりと光秀に見切りをつけました(6月9日参照>>)。
その後、行われた清洲会議(6月27日参照>>)の時には、もうバッチリ秀吉の傘下に属しています。
ただし、先ほど書きましたように、すでに隠居していますので、ここから先は、武将としてではなく、文人として、秀吉のそばに仕える事になります。
そう、実は、この幽斎さん・・・武勇の誉れ高き武将である反面、その趣味が、茶の湯や料理、古典や歌道などなど、ありとあらゆる日本文化に関して、プロ並み・・・いえ、もはや、その分野での第一人者と言えるくらいの領域に達していたのです。
幽斎が、まだ若い頃・・・官位をもらって、御所に昇殿された時と言いますから、18歳の頃の事でしょうか。
その文化的才能があまりにも有名だったため、それを妬んだ意地悪な公家に、宮殿の階段から突き落とされ・・・
「お前は、歌の名人やて言われてるらしいけど、こんな時でも一首詠めんのか?
詠めるもんなら読んでみぃ!」
と、からかわれます。
すると、幽斎はスクッと立ち上がって、すかさす・・・
♪とんと突く ころりと転ぶ 幽斎が
いかでこの間(ま)に 歌を詠むべき♪
と、返したのだとか・・・
・・・って、この時、まだ幽斎って名乗ってませんやん!
てな、固い事は言わずに・・・まぁ、そんな逸話が残るくらいその趣味は趣味の領域を超えていたって事でしょうね。
言わば、これが、幽斎さんの長寿の秘訣です。
考えてみると、この戦国時代・・・病気よりもはるかに高い確率で、死に至る戦がらみの刃傷沙汰・・・その危険をかいくぐって、時々の権力者に一目置かれるのも、実は、その趣味のおかげなのです。
それは、秀吉が亡くなって、次ぎに、しっかりと徳川家康傘下に入った幽斎&忠興親子を襲った関ヶ原の合戦の時・・・家康に従って会津征伐に参加していた忠興の留守中を狙って、石田三成派の西軍に囲まれてしまった田辺城・・・。
隠居の身とは言え、息子が留守にしている以上、先頭に立って死を覚悟して守りにつく幽斎でしたが、その合戦を止めに入ったのは、なんと、時の天皇・後陽成(ごようぜい)天皇でした。
それは、『古今伝授』が耐えては困ると、天皇が心配しての行動でした。
古今伝授・・・つまり、『古今和歌集』を後世に正しく伝える知識ですが、当時は、印刷技術や録音機器もありませんし、ましてやCD-Rにも収められませんから、人から人へと伝わるうち、その解釈かゆがんでしまうため、ちゃんと、その知識を身に着けた人が次ぎの人に伝え、次の人が完璧にマスターした時点で、バトンタッチしなくては、ちゃんと伝わらないわけです。
幽斎は、元亀三年(1572年)に三条西実枝から、その古今伝授を受け、奥義をマスターしていたわけで、彼がいなくなると、古今和歌集を正確に読み解く人がいなくなるという事で、後陽成天皇が合戦を止めに入ったわけです(7月21日参照>>)。
まさに、「芸は身を助ける」ってヤツです。
徳川家康までもが、幽斎に、室町文化について教えを請うたり、幕府の創設について相談したりもしていたようです。
もともと、あの田辺城の時以外は、隠居してからは、ほとんど息子にまかせっきりだった幽斎は、そのぶん権力への執着もないので、逆に、権力者たちは安心して、彼に教えを請いに来るのです。
それに、その人生を見てもわかるように、彼は世渡り上手ですしね。
結局、息子・忠興が九州の肥後(熊本県)に栄転となった時も、幽斎は九州へは行かず京都に残ります。
そして、慶長十五年(1610年)8月20日、77歳でこの世を去るのです。
彼の場合は、まさに天寿をまっとうしたと言うにふさわしい最後だったのではないかと思います。
趣味に没頭する・・・これも長寿の秘訣かも知れませんね。
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コメント
茶々さん
残暑お見舞い申します。
ご無沙汰しました。
いつも、楽しく拝読しております。
細川幽斎からの流れかしら
総理の座をあっさりと放棄して
陶芸三昧の生活をしてらしゃる
御子孫もいらしゃるようですが
それが長寿の秘訣なのですね。
投稿: さと | 2008年8月20日 (水) 21時05分
さとさん、こんばんは~
あのご子孫は、今、陶芸三昧なのですか?
確かに、先祖代々の長寿の秘訣かも知れませんね~
ただ、それが、周囲に好印象を与えるかどうかは、現役の時の功績によるのかも・・・。
やる事やっての勇退ならば、その後の長寿も祝ってもらえるというモンでしょう。
投稿: 茶々 | 2008年8月20日 (水) 22時00分
息子の忠興も80歳を超える長寿で、「父子あわせて160歳を超えた」家は他にあまりいないです。大久保彦左衛門の大久保家もかなり長寿の一族です。「バルカン武将トリオ」の藤堂・細川(忠)・真田(兄)の3人が全員数え75歳以上まで生きたのは、人生の後半(幕府発足以降)は前半生とは違う生き方(この3人は発想の転換がうまい)をしたからではないでしょうか?現代にも通じる事と思います。世間を見ると「柔軟と融通」が欠けている様な気がするんです。
今日で最終回の「天地人」の感想は、22日の視聴率が発表されたら記載します。
投稿: えびすこ | 2009年11月22日 (日) 08時57分
えびすこさん、こんばんは~
長生きするかたは、皆、世渡り上手なのでしょうね。
投稿: 茶々 | 2009年11月22日 (日) 23時12分
織田信長・豊臣秀吉・徳川家康と同じ時代を生きた細川幽斎(剃髪前は、藤孝)が長寿でいられたのは、もしかしたら、多趣味なだけではなく、健康管理や食事に対する考え方が優れていたかもしれない上に、野心や権力への執着心がなかったからではないでしょうか。幽斎は、年齢を重ねていくにつれて、性格が丸くなったり、さらには、細川家を存続させるには、どうしたら良いのかを考える力が備わっていったのだと思います。幽斎の生き方は、見習うべきことが多くある気がしますね。
投稿: トト | 2020年2月19日 (水) 14時09分
トトさん、こんにちは~
隠居して心穏やかに過ごしておられたのでしょうねぇ。
幽斎さんには今年の大河での活躍を期待してます。
投稿: 茶々 | 2020年2月19日 (水) 15時30分