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2008年8月13日 (水)

齢79!生涯現役~朝倉宗滴の長寿の秘訣

 

弘治元年(1555年)8月13日、朝倉宗滴が加賀一向一揆を高尾山におびき出し、一揆衆を撃破しました。

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朝倉宗滴(そうてき)は、越前(福井県)の朝倉氏の第7代当主・朝倉孝景(たかかげ)の末っ子として生まれ、孝景の孫である第9代当主・朝倉貞景(さだかげ)の叔父として支え、朝倉氏を全盛期へと導いた武将です。

今よりず~と平均寿命が短かった戦国時代に、彼は79歳まで生きた長寿の武将です。

宗滴のほかにも、毛利元就:75歳、細川幽斎:77歳(8月20日参照>>)藤堂高虎:75歳、本多正信:79歳、大久保彦左衛門:80歳(2月1日参照>>)、さらに最高齢は北条幻庵:97歳(11月1日参照>>)・・・などなど、

意外にも多くの長生きさんがおられますが、ほとんどの方が、晩年は家督を譲ったり、隠居したり、趣味に生きたりと、いわゆる戦国武将の現場である合戦の場からは遠ざかっている方が多い中、この宗滴さんは、生涯、現場主義の現役をつらぬいた人です。
(*北条幻庵は、生年があいまいなため、実際にはもう少し若かったのでは?と言われていますが、一応、記録上は97歳ですので・・・)

宗滴さんは、その生涯の中で、12回の合戦に出陣しているのですが、その中の最後の戦いとなったのが、この加賀一向一揆との戦いでした。

ご存知のように、加賀は、長享二年(1488年)の6月に、守護・富樫正親(とがしまさちか)の籠る高尾城を包囲して自刃に追い込んでからは、一向宗門徒の王国となっていた場所でした(6月9日参照>>)

そんな加賀一向一揆衆は、その勢力を拡大すべく、それから後も、たびたび隣国である越前に進攻を繰り返していて、永正三年(1506年)の3月にも、宗滴が総大将となって、一揆衆を迎え撃ち、越前を守り抜いています。

そして、弘治元年(1555年)8月13日・・・この時も宗滴さんは、一揆討伐のため、総大将として出陣し、一揆衆を撃破・・・さらに、この後も、戦況は朝倉勢が優位に進んでいくのですが、さすがの彼も、もはや、老骨に鞭打つ状態だったようで、間もなく、陣中にて、病に倒れてしまいます。

静養のため、越前・一乗谷に戻り、手当てを受けていましたが、残念ながら、9月8日、帰らぬ人となります。

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越前一乗谷朝倉氏遺跡
史跡については【戦国のポンペイ…一乗谷朝倉氏遺跡】のページで>>

享年79歳・・・まさに生涯現役です。

そんな宗滴さんの長寿の秘訣が、彼の家臣が書いた『朝倉宗滴話記』に残ります。

もちろん、これは、どちらかというと合戦のためのマニュアルのような本で、そこに「長寿の秘訣」として書いてあるわけではありませんが、彼が語ったとされる様々な語録の中に、「そういうものの考え方だから長寿なんだなぁ・・・」と感心させられる部分がいくつかあるのです。

「武士は、たとえ犬畜生って言われても、ただ勝つ事だけを目的にせなアカン。それに、勝つためには、戦場だけでガンバッってたんではアカンで、日頃から心身を鍛えとかな。」

「殿様を支えて、常に敵と戦わなアカンねんから、毎日、緊張の連続やで」

「殿様と二人で、敵をやっつけて天下を取る話をしてたら、ホンマおもしろうて時間忘れるわ。気ぃついたら朝になってる事が何回もあんねん。」

「毎日のように生きがいを見つけられるし、楽しいてしゃぁないのに、なんで、世の中の年寄りは、退屈やとか、夜も寝られへんとか言うんやろ・・・ホンマわからんわ」

これ、みんな、かなりお歳を召してからのお言葉です。

天下を取る夢を、一晩中、ワクワクしながら語り明かすなんて、まるで少年のようです。

毎日、新しい発見をして、生きる事が楽しくて仕方が無いなんて・・・。

しかも、それは、勝手にそうなるのではなく、日頃から、ちゃんと意識して積み重ねていってるんですね~。

ホント、いつまでも、こうありたいものです。

戦国という時代に、79歳という年齢・・・さぞかし、天寿をまっとうして、思い残す事もなかったんだろうなぁ~

・・・と、思いきや、宗滴さん、最後の最後に、こんな事をおっしゃってます。

「ここまで生きたんやから、今すぐ死んでも言い残す事はないで~。
けど、もうちょっとだけ生きていたいなぁ。
なんで?…て、織田んとこのバカ息子が、この先、どないしよるか見てみたいもん。」

宗滴さんが、亡くなった弘治元年(1555年)と言えば、織田んとこのバカ息子=信長さんは、まだ、21歳・・・織田家の家臣の中にでも、未だ弟・信行のほうが後継者にふさわしいと思う人がたくさんいた時代です。

斉藤道三の娘・濃姫と結婚したのが天文十八年(1549年)、その4年後に、初めて信長と会見した道三が、「わが国はムコ殿の引き出物になるだろう」と言ったという、あの逸話(4月20日参照>>)が本当だったとしたら、道三はすでに、信長がただのうつけ者ではない事を見抜いていたわけですが、宗滴さんも、「この先どうするか見たい」という事は、やはり、信長の器量を見抜いていた数少ない中の一人という事になります。

この、「時代の波を見る」という事も、長寿の秘訣だと思います。

今、世間はどのように動いているのか?
何が求められているのか?
どんなものが流行ってる?なんてミーハーもアリだと思います。

そして、何よりも重要な事は、志半ば・・・という事・・・。

人生、これで満足と思ってしまっては、できる事もできなくなってしまいそうです。

あれもやりたい!これもやりたい!

人生、最後の最後まで、志半ばというのが、若さの秘訣なのかも知れません。

宗滴さん・・・たとえ、それがいくつであっても、「信長の行く末を見てみたい」という志半ばの無念の死であった事でしょう。
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コメント

宗滴さん…まさか織田んちの馬鹿息子って呼んでた、信長君に我が家の総領息子の義景ちゃんがやられちゃうなんて考えなかったでしょうね。

投稿: マー君 | 2008年8月15日 (金) 01時59分

マー君さん、こんにちは~

信長さん、まだ半裸でワルサしまくって「うつけ」と呼ばれていた時代ですからねぇ・・・

>義景ちゃんがやられちゃうなんて考えなかった・・・

ひょっとしたら、その器の違いに気づいていたからこそ、「見てみたい、死にたくない」となったのでは?

そうだとしたらカッコイイなぁ・・・宗滴さん。

投稿: 茶々 | 2008年8月15日 (金) 10時19分

いい言葉ですね、時代を見る目と「志なかば」そして、大阪弁の朝倉宗適のことばも良いですね。でも、富山にいらしたので無かったですか、福井と近いような?

投稿: minoru | 2011年8月13日 (土) 14時30分

minoruさん、こんにちは~

富山に10年いましたが、ずっと大阪弁でした。

なかなか変わらないもんです。

投稿: 茶々 | 2011年8月13日 (土) 16時59分

今の時代は、65歳で定年退職が当然といえるご時世ですが、朝倉宗滴(教景ともいう)の場合は、死去するまで、現役を貫き通す生きざまは、戦国時代において、最強の武将かもしれません。しかも、人生のすべてを朝倉家に捧げたといっても、過言ではないでしょうから、宗滴に対して、朝倉義景が信頼したのが分かる気がします。

投稿: トト | 2016年1月31日 (日) 08時36分

トトさん、こんにちは~

死ぬまで現役でいたいですね。

投稿: 茶々 | 2016年1月31日 (日) 18時18分

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