龍馬に影響を与えた姉・坂本乙女
明治十二年(1879年)8月31日、坂本龍馬の姉・坂本乙女が、47歳でこの世を去りました。
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ご存知、坂本龍馬には、歳の離れた兄と、その間に三人の姉がいますが、ドラマなどで描かれる時に登場するのは、必ずと言っていいほど、この坂本乙女(おとめ)さん・・・。
乙女と龍馬は3歳違いですが、龍馬が12歳の時に母親が亡くなったため、多感な思春期を、母親代わりに世話をしたのが、すぐ上の姉・乙女で、「龍馬の精神的成長に多大な影響を与えたのではないか?」とされ、兄弟の中では、ひと際、注目されている人なのです。
龍馬の少年時代は、たいへんな泣き虫で、塾などへ行っても、大抵泣かされて帰ってきていたそうですが、それは、小さい頃は病弱だったため、母親が腫れ物にさわるように育て、その母親が亡くなってからは、弟を可愛がる三人の姉・・・となると、どんな雰囲気の少年だったかは、だいたい想像がつきますよね。
ところが、そんな龍馬の性格を見かねて、立ち上がったのが乙女です。
「小さい頃はカワイイで済まされるが、思春期になってコレでは先が思いやられる」とばかりに、その教育方針を一転!・・・龍馬の性格改造に乗り出します。
彼女は、身長五百八寸(176cm)、体重三十貫(130kg)はあったいう当時としてはかなりの大女・・・「坂本の仁王さま」というニックネームがついていたと言います。
そんな彼女が、その巨漢をもろともせず、剣術をこなし、強弓を引き、泳ぎも上手で、馬術もたしなむ(馬が・・・)というから大したモンです。
しかも、和歌や三味線、謡曲などの芸事も一通りこなしていたというのですから、その性格も想像できます。
男まさりで、負けず嫌い、こうだと思ったら最後まで信念をつらぬく・・・そんな彼女が、本腰を入れて、弟の教育に乗り出したのですから、その厳しさもハンパじゃありません。
行儀作法に始まり、読み書き、剣術・・・
おかげで、龍馬が近くの剣術道場に通う頃には、すっかり腕も上達し、やがて、その剣術の修行のため、故郷を離れ、江戸へと向かう事になります。
その江戸で、北辰一刀流の小千葉道場に入門するわけですが、時代は、まさに幕末・・・佐久間象山(7月11日参照>>)に出会い、そして、あのペリーの黒船来航(6月3日参照>>)にも影響され、龍馬の中では、何かが目覚め始めるのです。
8年間の剣術修行を終え、北辰一刀流免許皆伝(免許皆伝ではないという説もあります)となった龍馬は、故郷・土佐(高知県)へ戻ってきますが、その頃には、もうすっかり志士となっていました。
その後、決起したばかりの土佐勤王党に参加し、さらに脱藩・・・。
一方の乙女は、龍馬が江戸にいる間に、近所のお医者さん・岡上樹庵(おかうえじゅあん)と結婚し、男の子を設けていましたが、龍馬が土佐に戻ったこの頃には、すでに離婚していたようです。
・・・というのも、龍馬は、近況報告として、乙女にしょっちゅう手紙を出しているのですが、この脱藩の頃の手紙からは、ダンナさんの事を、いっさい書かなくなってしまっているので、おそらく、もう、交流が無かったんでしょうね。
離婚の理由は、夫の暴力、夫の浮気、姑との渡鬼・・・などなど、結局のところはよくわかっていません。
そんな姉・乙女の事を、龍馬は・・・
「親に死なれてからは、乙女姉さんに育てられたようなモンやきに・・・親の恩よりも、姉さんの恩のほうが大きいぜよ」
と、奥さんのお龍によく話していたそうです。
その話といい、上記の大量の手紙のやりとりといい、やっぱり龍馬は、兄弟の中では、乙女と一番仲が良かったようですね。
そんな、仲のよかった弟を、彼女は、先に見送らなければなりませんでした。
慶応三年(1867年)11月15日・・・彼女は暗殺という形で、かわいい弟を失いました(11月15日参照>>)。
思えば、ひ弱な弟に、「強くなれ!」と叱咤激励した彼女・・・。
強くなるために江戸に向かい、多感な青春時代をそこで過ごし、大いなる志を持ってしまったために、その命を縮める事になってしまった・・・ひょっとして、ひ弱な弟がひ弱なままだったら、土佐の故郷で天寿をまっとうできていたのかも知れません。
果たして、最愛の弟を失った彼女の心の内は、どのようなものだったのでしょうね。
自分の思いが、結果的に、弟の命を縮めてしまった事に対する後悔の念なのでしょうか?
はたまた、維新の礎となって華々しく散った弟へ「よくやった」とのねぎらいの思いなのでしょうか?
私は、おそらく、後者だと・・・いや、そうであってほしいと願っています。
龍馬の功績は、その生前は、ほとんど評価される事がありませんでした。
いえ、現在でさえ、彼がやったとされる事が、本当に彼がやった事なのか?それとも、小説による空想の産物なのか?の論議が分かれるところです。
♪世の人は
われを何とも
言はゞいへ
わがなすことは
我のみぞしる
これは、龍馬が詠んだとされる歌・・・
いつも、どんな時も、人がなんと言おうと、乙女は龍馬の一番の理解者だったと言います。
どこで、何をしているのか・・・細かな事はわからなくても、我が弟の成す事を、彼女は、ずっと信じていたに違いありません。
「他人が何と言おうと、姉のみぞ知る」と・・・
そんな彼女は、龍馬の死から13年の後の明治十二年(1879年)8月31日、壊血病(かいけつびょう)で47歳の生涯を閉じたのです。
信念を貫く、豪快で強気な姉は、あの世で、また、「維新を見ぬ前に死んでしもたぜよ」と嘆く、泣き虫の弟を、叱咤激励しているのかも知れません。
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