« 阿津賀志の戦い~進む頼朝VS防ぐ泰衡 | トップページ | 大友宗麟~理想のキリシタン国家・ムシカに到着 »

2008年8月11日 (月)

迫る関ヶ原!先発隊の進軍~その時家康は…

 

慶長五年(1600年)8月11日、東軍=徳川家康方の先鋒が三河岡崎城に到着しました。

・・・・・・・・・

この東軍というのは、ご存知、関ヶ原の合戦の東軍です。

そのメンバーは、
浅野幸長(よしなが)
有馬豊氏
池田輝政
生駒一正
加藤嘉明
桑山元晴
黒田長政
田中吉政
藤堂高虎
一柳(ひとつやなぎ)直盛
福島正則
細川忠興
堀尾忠氏
山内一豊
らといった面々・・・。

7月25日に行われた例の小山の軍儀(7月25日参照>>)で、徳川家康につく事を表明し、この先、自分の城を東軍の拠点にと提供した面々が多く含まれています。

・・・・・・・・

話はさかのぼりますが、そもそもは、豊臣秀吉亡きあとの豊臣家臣団の内部分裂を利用して、石田三成のほうから挙兵させようと、「豊臣家への謀反をたくらむ会津の上杉景勝を攻撃する」と称して、居座っていた伏見城を後にした家康・・・。

案の定、三成は、家康が留守にした伏見城を攻撃します(7月19日参照>>)

・・・で、家康は、会津への攻撃ををとりやめて、三成への攻撃に変更するわけですが、今、連れている大軍は、上杉を討つために出陣したと信じている豊臣の家臣たちです。

そこで、開かれたのが、先ほどの小山の軍儀・・・

「この先、自分につく者は残り、三成につく者は西軍へどうぞ」とやったわけです。

ちなみに、この小山の軍儀では、前日からの根回しのおかげもあり、さすがに本人目の前にして「サヨナラ」は言い難いしで、その場では「家康様についていきます!」感で盛り上がったようです。

しかし、小山と言えば、江戸よりもさらに北・・・そこから、再び畿内に戻るためには、途中途中に拠点が必要となります。

そこで、この軍儀の時点で、味方につく事を表明した諸将が、「自分の城をどうぞ使って」と提供したのです。

横須賀城=有馬豊氏、吉田城=池田輝政、興国寺城&駿府城=中村一忠、沼津城=中村一栄、掛川城=山内一豊、岡崎城&西尾城=田中吉政、浜松城=堀尾忠氏、刈谷城=水野勝成、清洲城=福島正則・・・これらの城が家康に提供されました。

そして、徳川譜代の本多忠勝井伊直政を軍監(軍目付)とし、8月1日に小山を出発した彼ら先鋒は、慶長五年(1600年)8月11日田中吉政が提供した岡崎城に到着したのです。

このあと、彼らは、福島正則の提供した清洲城へと向かい、清洲を拠点に、西軍についた織田秀信(信長の孫=三法師)岐阜城を攻める事になります(8月22日参照>>)

ところで、彼ら先鋒が、どんどん西へと向かっている間、家康はどうしていたのでしょうか?

先鋒から遅れること3日・・・8月4日に小山を出発した家康は、翌、5日には、居城である江戸城に入り、せっせと手紙を書いていたんです

加藤清正伊達政宗をはじめ、多くの武将に合戦後の恩賞をチラつかせて、東軍に参戦するよう呼びかけの手紙です。

なんせ、今でも家康の立場は豊臣の一家臣・・・この合戦は豊臣家同士の内紛ですから、ひとりでも多く味方につけ、味方につかなかった者を合戦で一掃する・・・そうすれば、残った者は、豊臣の家臣でも、皆、自分の味方ですから・・・。

もちろん、先鋒として向かった福島正則や、堀忠政らのサポートも忘れていません。

彼らも、一旦、東軍に属する事を表明していても、妻子を大坂に残したままの者も多くいましたから、いつ寝返るかわかりません。

さらに、大坂にいたため、そのまま西軍になってしまった脇坂安治伊藤祐兵(すけたか)らにも連絡をとり、決戦の際に寝返るよう切り崩し作戦も展開。

この時に、家康が書いた手紙は150通を越えると言います。

大坂に残った妻子を大坂城へ召し出させて、人質として味方につけようとした三成と比べるのも何ですが、やはり、人の扱いに関しては、家康のほうがずっとウワテだったようですね。

ただ一つ・・・三成の挙兵や、諸将の寝返りを予想していた家康にとって、一番の予想外だったのは、西軍の総大将に毛利輝元がなってしまった事(7月15日参照>>)・・・毛利の影響は大きいですから・・・。

これには、黒田長政を通じて、吉川広家の不参戦と小早川秀秋の寝返りを画策(9月15日参照>>)・・・ご存知のように、関ヶ原当日のこの二人の行動は、戦況を大きく左右しました。(関ヶ原の合戦・参照>>)

Sekigaharaieyasuroot
関ヶ原の進路図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

かくして、8月中に、事前の対策をやりまくった家康さん・・・9月1日におもむろに江戸城を出発・・・西へと向かう事になります(9月1日参照>>)

『慶長記』によれば・・・
「9月1日に出陣する」
と言い出した家康に、石川日向守
「9月1日は、暦では西ふさがりの悪日、大事のスタートには良くない日です」
と言うと、家康は一言・・・
「西はすでにふさがっている・・・今からそれを自分で開けに行くのだ」
と言ったのだとか・・・

家康さん、今日はなんだかカッコイイ・・・
 .

あなたの応援で元気でます!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 


« 阿津賀志の戦い~進む頼朝VS防ぐ泰衡 | トップページ | 大友宗麟~理想のキリシタン国家・ムシカに到着 »

家康・江戸開幕への時代」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 迫る関ヶ原!先発隊の進軍~その時家康は…:

« 阿津賀志の戦い~進む頼朝VS防ぐ泰衡 | トップページ | 大友宗麟~理想のキリシタン国家・ムシカに到着 »