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2008年8月 3日 (日)

第五次・川中島の合戦~塩崎の対陣

 

永禄七年(1564年)8月3日、甲斐武田信玄越後上杉謙信の間で繰り広げられた、川中島の戦いの第五回目川中島の合戦~塩崎の対陣が勃発しました。

・・・・・・・・・

有名な川中島の合戦は全部で5回あり、その中で一番激しい合戦だったのが、鞭声粛々でお馴染み、永禄四年(1561年)9月10日の第四次・川中島の合戦~八幡原の戦いでした(9月10日参照>>)

結果的には、引き分けに終ったものの、信玄はこの4回目の合戦で、信頼をしていた弟の信繁と、名軍師の山本勘助を失うという大きな痛手を被っていました。

それから三年・・・

謙信は、前回の第四次・川中島の直前に、上杉憲政(のりまさ)から関東管領職を譲られていたのですが、結果的にこの事が謙信の足かせとなってしまいます。

Uesugikensin500 確かに謙信は、義の人・・・
第一次と第二次の間、第三次と第四次の間の二回に渡っての上洛を果たし(4月27日参照>>)

戦乱平定の勅命(ちょくめい=天皇の命令)や内示を受けているのも、信濃への進攻を繰り返す信玄は悪であり、それを倒す正統な大義名分が、謙信には必要だったからです。

自らが正義でないと、謙信は戦わないのです。

そんな謙信にとって、関東管領職は、まさに、幕府公認の大義名分なわけですが、その関東管領が、本来、支配しなければならない関東には、今のところ実力でその地を支配する北条氏がいるわけで、結局、謙信は信玄に加えて北条とも戦わなければならない事になってしまったわけです(6月26日参照>>)

そんな中、永禄七年(1564年)、信玄は、陸奥南部(福島県)芦名盛氏(もりうじ)「関東に出陣中の謙信の背後を突いて欲しい」と要請し、その間に信濃(長野県)越後(新潟県)の国境付近にある上杉方の城砦を攻撃しはじめるのです。

自国が危なくなった謙信は、たまらず関東での北条との戦いを捨て、越後へと帰るのですが、これこそ義の人=謙信にとっては、許し難い行為で、この時の謙信さん・・・かなり怒ってます。

この年の5月~7月にかけて、『武田晴信(信玄)悪行之事』と題する願文を各地の寺社に奉納して、「必ず撃退する」と、信玄追討の決意をあらわにしています。

そして、同じ年の7月末・・・態勢を立て直した謙信は、信濃の善光寺平(長野盆地)に進撃、一方の信玄も、信濃の塩崎(長野市篠ノ井)に陣を敷きました。

いよいよ永禄七年(1564年)8月3日、謙信は、さらに川中島まで進み、武田方の海津城(長野市)の間近へと迫ります。

もちろん、これは、信玄を川中島へ誘い出すためで、三年前のあの時と同じです。

Takedasingen600b しかし、信玄は、その誘いに乗らず、塩崎から動こうとしません。
やはり、前回の合戦に相当なショックを受けていたのでしょうか?

かと言って謙信のほうも、積極的に攻撃を仕掛ける事はなく、両者は、一里(約4km)を挟んで、60日間ものあいだ、にらみ合いを続けます

そうです。
この第五次・川中島の合戦が塩崎の対陣と呼ばれるのは、にらみ合いだけで、戦う事が無かったからなのです。

結局、10月1日に、謙信が先に越後へ引き揚げ、続いて信玄も兵を退く事で、この戦いは終りました。

この5回目の戦いで、12年に及んだ川中島の合戦に終止符が打たれる事になるのです。

もちろん、この後も、謙信が戦う事になる関東の北条、北陸の一向一揆の背後には、信玄の影がちらついてはいますが、直接対決は今回で最後・・・

この一連の合戦が引き分けに終ったのは、やはり、謙信と信玄の軍事力が、ほぼ同等にあった事・・・そして、この一連の合戦が、ここで終了するのは、謙信・信玄ともに重要なライバルが出現してきた事にあるでしょう。

それは、桶狭間の戦い(5月19日参照>>)今川義元を倒した織田信長・・・

謙信と信玄が肉薄した軍事力で一進一退を繰り返しているうちに、そのおとなりで、最も天下に近い場所に躍り出てしまった若手を何とかしなくては・・・。

時代は、次世代へと動き始めました。

この後、謙信は北陸で信長配下の柴田勝家(9月13日参照>>)
信玄は、信長と同盟を結んだ徳川家康(三方ヶ原の戦い・参照>>)と相まみえる事になります。

*参照*

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コメント

5回目の戦いはなかったとみなされ、最近では「実質4回」とカウントされています。
信玄の立場から見ると攻めるに攻められないと言えますね。

高校野球が始まりました。今年は新潟と山梨が1回戦を突破すると、2回戦では「川中島カード」になるんです。実は3年前に実現しました。ちょうど「風林火山」の年だったので「山梨側スタンド」では、ブラバンが番組のテーマソングの演奏をしていましたね。

投稿: えびすこ | 2010年8月 7日 (土) 15時02分

えびすこさん、こんにちは~

そうですね
なので、「戦い」ではなく「塩崎の対陣」と呼ばれますね。
実際に交戦はありませんでしたが、挙兵はしたという事でしょう。

投稿: 茶々 | 2010年8月 7日 (土) 16時39分

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