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2008年8月19日 (火)

信長・秀吉・家康が成しえた城割の重要性とは?

 

天正八年(1580年)8月19日、織田信長の命により筒井順慶が、筒井氏の本城・筒井城の破却を開始しました。

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この半月前の8月2日、筒井順慶に上り、織田信長に会います。

Tutuizyunkei600a そこで、順慶は信長から、郡山城だけを残して、それ以外の大和(奈良県)の国中の城を破却するように命じられ、翌3日、本城である筒井城(つついじょう=奈良県大和郡山市)(11月18日参照>>)に戻ってきますが、8日には、今度は「摂津・河内(大阪府)にある諸城も破却せよ」との命令が下ったために、順慶は即座に河内に向かいます。

17日には、河内国の城の破却が完了し、順慶は再び大和に戻って、大和の城郭を次々と破却・・・そして、天正八年(1580年)8月19日には、筒井城の破却に取り掛かるのです。

奈良中の人夫が狩りだされて、その工事にあたり、20日には、すでに大和国中の城のほとんどが破却され、順慶は郡山城に入りました。

以上は、多聞院英俊(えいしゅん)が書いた『多聞院日記』に書かれている記述ですが、これを書いた英俊本人も・・・
「国中おおむね城を破ると云々。残る所無きか」
と驚きを隠せません。

確かに、ものすごいスピードで、次々と城が壊されたようですね。

このお城の破却の事を『城割(しろわり)と言いますが、この城割は、「天下統一は城割なしではありえなかった」とまで言われるほど重要な事なのですが、事が地味なせいか、時代劇や戦国ドラマなどではほとんど扱われる事がありません。

確かに、派手な合戦シーンや、武将同士の巧みな駆け引きなんかのほうが、ドラマとしてはオモシロイのでしかたないですが・・・。

もともと、城割の前身とも言える城の破却自体は以前から行われていましたが、それは、単に倒した相手の城を壊したり、あるいは、敵に奪われそうになると破壊して逃走したりといった類の物で、これだけ一斉に、かつ計画的に、そして大々的に行ったのは、やはり信長・・・。

そして、信長の城割は、豊臣秀吉の城割へと受け継がれ、さらに元和元年(1615年)6月13日に徳川幕府が発布する『一国一城令』完成形となるのですが・・・、

上記のように、信長・秀吉・家康の三人が成しえた城割・・・という事は、やはり、それが天下統一と密接に関係している事がわかります。

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そもそも戦国武将が群雄割拠していた時代、その領内には、支城という物が網の目のように張りめぐらされていました

それは、当時の戦国大名が、その配下の国人(こくじん)土豪(どごう)たちによってその兵力を維持していた事を意味しています。

国人・土豪とは、普段は農業に従事し、いざという時に鎧を着て槍を持って支城に馳せ参じ、合戦におもむく兵士たちの事・・・もちろん、この支城というのも、お城と言ってすぐ思いつくような天守閣のような立派なお城ではなく、お屋敷に毛の生えたような小さな物が大多数なのですが・・・。

その建てかたと言えば、ある支城から吹き鳴らすほら貝・太鼓などの聞こえる範囲に次ぎの支城を、そして、また、その支城から音が聞こえる範囲に、また支城を・・・という感じで建てられ、先ほどのいざという時を知らせるのがほら貝であり太鼓であるわけですから、その音で、兵を召集し、さらに次ぎの支城にも急を知らせるわけですね。

また、『つなぎの城』『対(つい)の城』といった感じで、支城が建てられる場合もあります。

それは、いつ国境を越えて攻めてくるかも知れない敵を見張るためや防ぐために、その最前線に建てたり、あるいは、現在の領地の北側に位置する隣国を攻める時に、その国境近くの北の端に支城を建て、攻撃の拠点にするといった具合です。

しかし、そんな支城というのは、戦国大名にとって両刃の剣でもありました。

それは、支城の城主となった国人が、そのまま敵に寝返ってしまうと、あたりは即座に敵の領地になってしまいますし、国人が大名に反抗する場合には、その拠点を与えてしまう事にもなるからです。

敵国からの防御のためには、必要な支城・・・しかし、領国内の治安を維持するためには不必要な支城・・・多くの戦国大名は、この支城の存在に悩まされ続けてきました。

そんなスパイラルから脱却したのが信長です。

信長は、合戦に勝利して征服した地にある城を、本城だけを残して破却=城割をする・・・ただ単に一つの支城を破却するのとは明らかに違う統合整理を行ったのです。

もちろん、これには、支城を破壊するだけではなく、本城を強化するという事が必要です。
城も大きくし、城下町も整備しなければなりません。

信長が行った城割は、支城を潰す=無くすという事ではなく、本城に支城を吸収するといったほうがわかりやすいでしょうか。

国人や土豪たちが拠り所としていた支城が破却され、本城に吸収されれば、その国人・土豪たちは、もといた土地を離れ、本城の城下町に常駐する事になります。

つまり、兵農分離・・・これによって信長は、季節に関係なくいつでも戦えるプロの戦闘集団を手に入れた事になります。

もちろん、ここでの兵農分離に関しては異論もありましょう。

最近では、「江戸時代になるまで兵農分離は無かった」という意見もあります。

ただ、私も、信長が完全に兵農分離できていたとは思っていませんし、それが、信長独自の考えでは無く、他の戦国武将たちも考えていた事であろうとは思っていますが、少なくとも、この時点で、ある程度の兵農分離的な事があり、それを実現するに1番近い場所にいたのが信長なのでは無いか?と考えております。

そして、信長のあとに、四国、九州と次々に平定していく中で城割を行い、全国的に検地刀狩り(7月8日参照>>)を展開していく事で、その集中体制を強化させたのが秀吉です。

さらに、徳川幕府による一国一城令(7月7日参照>>)で、一つの領地に一つの城と一人の領主・・・その上に幕府があるという封建的体制が確立される事となるのです。

「次々と城を破壊」と聞くと、「せっかく建てて、まだまだ使えるのに、なんで壊すの?」と思いがちですが、城割の重要性をわかっていただけましたでしょうか。

おかげで、当時の城がほとんど現代に残っていないという、城マニアにとっては寂しいものになってしまいましたが・・・。

*城割によって強化された近世城下町の町割(まちわり)については、9月8日【大阪マイナー史跡~大手橋と近世城下町の町割】へどうぞ>>>
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