家康はなぜ?江戸城を選んだか
天正十八年(1590年)8月1日は、徳川家康が豊臣秀吉の命により、関東に入国した日・・・『江戸御打ち入り』の日です。
・・・・・・・・・・・
もちろん、実際には、もう少し前から関東入りしていた家康さんですが、一昨年書かせていただいたように、この日が『八朔(はっさく)』(2006年の8月1日参照>>)という豊穣の祝日だった事で、キリの良い8月1日を記念日=入国セレモニーの日と定めたわけで、後に徳川が政権を握った江戸時代を通じて、この8月1日が『江戸御打ち入り』の日と呼ばれるようになります。
ところで、この徳川家康の江戸入りは、あの小田原征伐の後の論功行賞(7月13日参照>>)で、滅亡した北条氏の治めていた関八州を、豊臣秀吉が家康に与えた事で、家康は、北条氏の支城であった江戸城を本拠地とする事に決め、この日の江戸入りとなったわけですが、これには、家康が・・・というより、譜代の家臣団にとって、相当なショックだったようです。
何と言っても、父の代から三河(愛知県)に根をはり、武田と今川の抗争に乗じて、駿河・遠江(静岡県)を手に入れ、織田信長亡き後に、秀吉が天下へとまい進する影で、甲斐(山梨県)・信濃(長野県)を自力で切り取り、五ヶ国の大大名に成長していたにも関わらず、それを、まるまる捨てて、まだ未開発の関東への転封となるわけですから・・・。
「それなら、せめて、居城を難攻不落の小田原城にしたい」
それは、家臣団だけではなく、ひょっとしたら家康自身も、そう思っていたかも知れません。
小田原は、その城下町をも含めた城塞都市・・・城は天下に聞こえた名城です。
多少の攻防戦はあったものの、結果的には、北条氏直による降伏の申し入れで、ほとんどダメージを受ける事なく開城されています(7月5日参照>>)から、前年に駿府城を完成させたばかりの家康のホンネは、ほぼ手入れなしでOKな、この名城がよかったのかも知れません。
また、家康が『吾妻鏡』を愛読し、自らを源頼朝の再来と位置づけていた事から、本当は、鎌倉を本拠地にしたかったのではないか?との見方もあります。
しかし、家康は江戸を選びました。
もちろん、それには、論功行賞の時に書かせていただいたように、秀吉の・・・
「江戸っちゅーとこに、居城を構えたほうがえぇで」
という言葉に、気をつかったという事もあったのかも知れませんが、あくまで最終決断を下したのは家康本人です。
ひょっとしらた、そこには家康の、将来を見据えた大いなる構想があったのかも知れません。
目の当たりにしてきた足利氏の衰退・・・そして信長と秀吉の生き様・・・。
そこには、それらの人々に関与する朝廷の影が見え隠れします。
政教をきっちりと分離し、自らが王になろうとした信長でさえ、ギクシャクしながらも天皇との関係を密にしていましたし、農民出身の秀吉などは、なりふりかまわず関白の座を手に入れました。
それを見てきた家康は、朝廷に左右される事のない、新たな武家政権を造ろうと考えたのではないでしょうか?
それには、天皇のおわす京の都に匹敵するような、幕府を置くための大きな都が必要となります。
小田原城は、すでに出来上がった難攻不落の名城・・・。
鎌倉もすでに出来上がったいにしえの都・・・。
その点、江戸は、広い関東平野を有する未開の地・・・オソマツな江戸城は、この先いくらでも改築できますし、まわりにある小さな漁村も、いくらでも開発ができます。
確かに、この時点で家康が300年の長きに渡る政権を見越していたとも思えませんが、少なくとも、朝廷と距離を置く事で、「足利氏や信長・秀吉の轍を踏まない」と考えたのではないでしょうか?
家康が、京都に構築を開始した二条城(5月1日参照>>)・・・それは、主に、朝廷に睨みをきかすためと、将軍が上洛した際の宿泊所とするために建てられたわけですが、その二条城には、それを完成させた3代将軍・徳川家光から、次に訪れる幕末期の14代将軍・徳川家茂まで、230年間の長きに渡って、将軍が入城する事がなかった事を考えると、やはり、結果論ではありますが、朝廷と距離を置く事が、長期政権の鍵だったのではないでしょうか?
果たして、家康は、その居城に、江戸城を選んだのか?選ばされたのか?
ご本人の心の内は、想像するしかありませんが、少なくとも、家康が江戸城を居城とした事で、この先の江戸時代という時代が・・・、そして、世界一の大都市である江戸という町が生まれた事は確かです。
.
「 戦国・桃山~秀吉の時代」カテゴリの記事
- 関ヶ原の戦い~福島正則の誓紙と上ヶ根の戦い(2024.08.20)
- 伊達政宗の大崎攻め~窪田の激戦IN郡山合戦(2024.07.04)
- 関東管領か?北条か?揺れる小山秀綱の生き残り作戦(2024.06.26)
- 本能寺の変の後に…「信長様は生きている」~味方に出した秀吉のウソ手紙(2024.06.05)
- 本能寺の余波~佐々成政の賤ヶ岳…弓庄城の攻防(2024.04.03)
コメント
愛知出身の家康は江戸のことを守っていて、子に将軍継いだり、大奥関係、伯爵など幅広いエリアにつながりますね。
家康の側室も大量でしたね。
私のブログも徳川の妻は何人いるのか数えきれないほどですよ。
投稿: sisi | 2008年8月 1日 (金) 14時38分
sisiさんのブログは、ホント、出演者がたくさんですね・・・
賑やかです
投稿: 茶々 | 2008年8月 1日 (金) 22時20分