« 長岡城落城とともに散った河井継之助~戦争回避ならず | トップページ | 新選組を表舞台に押し上げた八月十八日の政変 »

2008年8月17日 (日)

源範頼の自刃~頼朝は平凡な弟の何が怖かったのか?

 

建久四年(1193年)8月17日、伊豆・修善寺に幽閉されたいた源範頼が、兄・頼朝によって殺害されました。
(亡くなった日付には諸説ありますが、一応本日書かせていただきます)

・・・・・・・・・・

「源頼朝の弟で、兄・頼朝に殺された人物は?」
と、聞かれれば、ほとんどの人が迷わず「義経!」て、答えてしまうでしょうね。

失礼ながら、それだけ、本日の主役・範頼さんは影の薄い存在です。

Minamotononoriyori600a 源範頼(みなもとののりより)は、源氏の棟梁だった源義朝(よしとも)の六男・・・頼朝が三男で、義経が九男なので、ちょうどまん中になりますね。

母は、遠江・池田宿の遊女で、蒲御厨(かばのみくりや)で生まれた事から蒲冠者(かばのかじゃ)とも呼ばれます。

彼も、義経同様、兄・頼朝の挙兵(2006年8月17日参照>>)を知って駆けつけ、ともに木曽義仲を討って一の谷では大将を務め(2月7日参照>>)奮戦します。

天才的な発想で、奇抜な作戦を決行する義経と違って、範頼の戦い方は堅実なもので、そのぶん派手さに欠け、印象が薄いのでしょうが、彼は平家を追って中国はもちろん、九州にまで遠征しています。

ただ、頼朝・義経兄弟と比べると、コレというスゴイ業績がないのも確かです。

それは、やはり、彼の性格にあるのかも知れません。

とにかく温厚で・・・、さらに、武将としての野心が無いのか、平家追討にあたって貰った官職も、滅亡後には「必要ないから」と自ら進んで辞めちゃったりしてます。

頼朝の命令にもいつも素直に従って、義経のように、自らの意思で先走る事もありません。

ただ、そんな彼が、一度だけ頼朝の命令に従わなかった事がありました。

それは、「奥州へ逃げた義経追討軍の総大将をやれ」と言われた時です。

ご存知のように、義経は、義朝と常盤(ときわ)御前の子供で、同じ母のもとに、七男と八男という2人の兄がいます・・・つまり、六男の範頼は、異母兄弟とは言え、今となっては一番年齢が近い兄弟だったのではないでしょうか?

おそらく、彼は、非凡な才能を持ち、自分よりも目立っている弟を「うっとぉしい」なんて思う人ではなかったでしょう。

いや、むしろ、弟として親しみを感じ、快い存在であったに違いなく、だからこそ、そんな弟を討つなんていう事はできなかったんでしょうね。

これだけは、かたくなに固辞しています。

しかし、この一件で、頼朝さんに睨まれ、
「お前も、義経と一緒なんかい!」
と、脅されると、すぐに起請文を書いて忠誠を誓ったりなんかして・・・

弟を討つほど鬼にもなれないし、兄に反発する事もできない・・・やさしさは、裏を返せば頼りなさ。

強さとやさしさの両方をあわせ持つ事は、やはり難しいんでしょうね。

そんな野心のカケラもない範頼さんですから、本来、兄の脅威になろうはずもないのに、頼朝は、こんな範頼をも、義経と同様に、死に追いやってしまうのです。

その発端は、あの日本三大仇討ちの一つに数えられる曽我兄弟の仇討ち・・・(5月28日参照>>)

そのページにも書かせていただきましたが、彼ら兄弟が狙っていたターゲットは父の仇である工藤祐経(すけつね)と、もう一人・・・頼朝の命も取ろうとしていたと言われています。

なんせ本懐を遂げたにも関わらず、さらに奥に突進していますから・・・。

その現場にいた者たちも、おそらく、そう感じたに違いなく、混乱の中、情報が錯綜してしまい、事件直後に、鎌倉に頼朝死亡の誤報が舞込んで来てしまったのです。

うろたえる鎌倉の家臣たち・・・
嘆き悲しむ妻・北条政子・・・

そんな、政子の姿を見た範頼は・・・
「大丈夫!僕がいるから・・・心配しないで」
と、やさしくなぐさめます。

・・・と、これがいけなかった!

無事に鎌倉に戻った頼朝は、この話を、政子から聞いたのか、はたまた家臣の誰かから聞いたのか、「自分にとって代わるつもりなのではないか?」という疑いを持ちはじめるのです。

それまでの範頼さんの行動、性格からして、おそらく、そんなつもりではなく、単に、悲しむ政子を勇気づけようとしただけだったと思われます。

しかし、頼朝は、そうは思ってくれなかったのです。

さらに、後日、範頼の腹心だった当麻太郎という男が、何を思ったのか、頼朝の寝所の床下に潜んでいるところを発見され捕らえられるという事件が起こります。

これが決定打となり、範頼への頼朝の不信感はゆるぎない物になってしまいました。

これに対して範頼は、やはり起請文を差し出して忠誠を誓いますが、もはや、あとの祭り・・・8月に入って範頼は捕らえられ、伊豆の修善寺に幽閉されます。

さらに、頼朝は梶原景時(かじわらかげとき)を派遣して屋敷を取り囲み、攻撃を開始・・・「もはや、これまでと悟った範頼は、建久四年(1193年)8月17日屋敷に火を放ち、炎燃え盛る中、自刃したとされています。

ただし、例の『吾妻鏡』に範頼の死の記述がない事から、彼には、埼玉安楽寺で余生を送ったとか、愛媛に逃れたとかの生存説もある事も確かです。

しかし、この後、歴史上にその名が出てこないわけですから、たとえ、生きていたとしても、歴史の表舞台から抹殺された事には変わりないわけです。

それにしても、頼朝は、本当に範頼が謀反をくわだてるような人間だと思ったのでしょうか?

先ほどから書かせていただいているように、彼は権力に執着するようなタイプではありませんし、武力で他を制圧しようという気もさらさら無いように思います。

どちらかと言えば、武将としては失格とも言える性格です。

それこそ、義経ならともかく、範頼が頼朝の脅威になるとは、とても思えません。

本当に、温厚でおとなしい性格の弟に、幽閉では飽き足らず、抹殺してしまうほどの恐怖を感じたのでしょうか?

いえいえ、頼朝が怖かったのは範頼自身ではなく、おそらく、彼をかつぎあげる人間・・・

曽我兄弟の一件を見てもわかるように、反抗分子はどこにでもいます。

範頼の性格なら、そんな反抗勢力に利用されかねません。

単なる家臣の謀反と違って、源氏の血筋を全面に押し出せば、その勢力が自分に匹敵するほどの物になる可能性も無きにしもあらずです。

そう、頼朝が、本当に怖かったのは、範頼のそのやさしさではないかと・・・
「アナタのやさしさがコワイ・・・」(#^0^#)←神田川か!
 .

いつも応援ありがとうございますo(_ _)oペコッ!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 


« 長岡城落城とともに散った河井継之助~戦争回避ならず | トップページ | 新選組を表舞台に押し上げた八月十八日の政変 »

鎌倉時代」カテゴリの記事

コメント

神田川ですね。(笑)
権力者の孤独が垣間見えるお話でした。
それにしても範頼さん、要領が悪いですね。
無欲な人なんて、欲がありまくりの人から見れば不気味なのに。

投稿: ことかね | 2008年8月18日 (月) 13時38分

ことかねさん、こんにちは~

確かに、頼朝さんにとって義経のほうが、その心の内がわかりやすい存在だったかも知れませんね

範頼さんは、何を考えてるか理解に苦しむ存在だったのかも・・・ですね

投稿: 茶々 | 2008年8月18日 (月) 16時39分

何か頼朝さんのやり方を見てるっちゅうと…どの道、範頼さんを殺してただろうなって思えてきます。indoor-mama.さんは、範頼さんが官位を返上したのを無欲だったからと、仰ってますが義経くんに対する頼朝さんのやり方を見てた範頼さんが、このまんま僕も官位を持っとったら頼朝兄ちゃんから、どがいな難癖付けられっか分からへんぞ、こりゃ早いコト官位返上して兄ちゃんに謀反の気持ちなんぞ、これっぽっちも持っとらんちゅうとこ見せとかなヤバイんちゃうやろか。兄ちゃんに睨まれたら恐いけん、官位は惜しいけど命には代えられへんねんで、返上しとこ。ってな思いだったんじゃないかなと感じてしまうのですが、如何なモンですかね?

投稿: マー君 | 2008年8月18日 (月) 22時06分

マー君さん、こんばんは~

確かに、範頼さん、官位を貰った時はかなりうれしそうでしたから、やっぱり頼朝さん怖すぎで返上したかもしれませんねぇ・・・。

けど、結局は何をやっても、頼朝さんは止められなかったでしょうね。

投稿: 茶々 | 2008年8月19日 (火) 00時53分

茶々様、こんばんは。
かなり長らくご無沙汰しております。
恥ずかしながら、中学生になった娘の宿題のため、可能性はものすご~く低いけどご先祖様かもしれない範頼さんについて、こちらの記事を参考にさせていただいてもよろしいでしょうか。
かなりのご無沙汰の後、こんなお願いで申し訳ありませんが、よろしくお願いいたします。m(_ _)m

投稿: おきよ | 2010年8月19日 (木) 00時12分

おきよさん、お久しぶりです

>中学生になった娘の宿題のため…

ありがたい事です。
参考になるのなら使ってください

>先祖様かもしれない…

それだと力、入りますね!
頑張ってください(._.)

投稿: 茶々 | 2010年8月19日 (木) 03時04分

お許しいただき、ありがとうございます。
提出日が23日なので、とっても助かります。
初めて読ませていただきましたけど、本当に面白かったです(o^-^o)

投稿: おきよの娘 | 2010年8月19日 (木) 07時22分

おきよさんの娘さん、コメントありがとうございましたm(_ _)m

宿題、頑張ってくださいね!

投稿: 茶々 | 2010年8月19日 (木) 11時19分

私は、母方の先祖が範頼で子孫に当たります。実家は母の弟が守っており、現在は、農業をしています。この実家が今から50年弱前に旧古民家の建て替えをしたのですが、その時、屋根裏から出てきたのが、系図です。その主が源の範頼だったのです。刀もあったのですが、家を建て替える時、最寄りの神社に預けたのですが、そのまま神社の神主が、行方をくらまして、系図が帰らぬものとなりました。これを探されれば最後に範頼は島根県だと思われます。誰か研究していただければと思います。

投稿: | 2015年3月31日 (火) 15時24分

>系図が帰らぬものとなりました

それは残念です。
神社ではなく、博物館でしたら、研究者の方の手も入ったかもしれませんね。
ホント残念(>0<)

投稿: 茶々 | 2015年4月 1日 (水) 01時57分

茶々様
こんばんは

「鎌倉殿」
では、大姫を呪詛した疑いで、気色の悪い殺し屋を送り込んだ事になってましたけど、お粗末な脚本ですね。前の郷御前の時も変でしたが。
色々新しい史料が発見されたりしますが、
歴史ドラマは、極端な話を作らなくても、いわゆる通説通りやれば十分楽しめるのですが。
いずれにせよ、頼朝は早く馬から落ちろよ❗と思います。

投稿: 浅井お市 | 2022年6月20日 (月) 01時00分

浅井お市さん、こんばんは~

「鎌倉殿」は…

「なるほど、そう来たか~」と思わせるオモシロイところもあるので、おおむね楽しんでますが、

今回に限らず、大河でチョイチョイ出て来る「史実の曖昧な部分を架空キャラで一瞬で解決しちゃう」ところが、私的には好みではないのですね。

個人的には、その史実の空白部分をいかにウマい創作でつなぐか?が、ドラマや小説の作り手さんたちの腕の見せ所だと思っているので、少々残念な気がします。
(しかも今回は全部一人の殺し屋ww)

ま、SNSでは、その方を演じる役者さんのクレジットを見つけただけで「今日は誰か死ぬゾ~」と盛り上がってるみたいなので、今回は、それがウケてる感じもあるのでしょう。

逆に、史実に無い事に、名のある歴史上の人物を関わらせちゃうと、これまた別方面からクレーム来そうなので、万人向けのテレビドラマとしては架空の人物に処理してもらうのが1番妥当なのかも…

やはり、作り手の方には、視聴者にはわからない苦悩があるかも知れませんね。

投稿: 茶々 | 2022年6月21日 (火) 04時37分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 源範頼の自刃~頼朝は平凡な弟の何が怖かったのか?:

« 長岡城落城とともに散った河井継之助~戦争回避ならず | トップページ | 新選組を表舞台に押し上げた八月十八日の政変 »