刀禰坂の戦い~生きた山内一豊と死んだ斉藤龍興
天正元年(1573年)8月14日、越前の朝倉義景への織田信長の追撃・刀禰坂の戦いがありました。
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姉川の合戦(6月28日参照>>)の後も、織田信長への抵抗を続けていた越前(福井県)の朝倉義景と近江(滋賀県)の浅井長政・・・(11月26日参照>>)。
信長によって、その地位をないがしろにされた15代室町幕府将軍・足利義昭の声かけによって、一旦は敷かれた信長包囲網でしたが、一番の大物である武田信玄の死(4月12日参照>>)によって、もろくも崩れ始めます。
前後して、天正元年(1573年)の4月と7月に、上京焼き討ち(4月4日参照>>)と、槇島(まきしま)城攻撃(7月18日参照>>)を行って、将軍・義昭を京都から追放した信長は、続けて近江に攻め上ります。
もちろん、信長のターゲットは近江の浅井長政だけではなく、姉川の合戦の時から、強固な同盟関係にある越前の朝倉義景も同じです。
長政の居城・小谷城を包囲する信長軍に対して、城の北側に陣取る朝倉の援軍・・・
8月6日にこの援軍への攻撃を開始した信長・・・やがて8月12日には、この近江一帯に暴風雨が吹き荒れたのをきっかけに、朝倉の援軍への攻撃に主力を投入し北上を開始します。
信長軍に圧倒された朝倉軍は北へ北へと敗走し、すでに、木之本(滋賀県)まで来ていた義景も撤退を余儀なくされ、勢いに乗った信長軍は、そのまま追撃を開始。
義景ら朝倉軍は、追いすがる信長軍に抵抗を繰り返しながら、本拠地の一乗谷へと逃走する事になるのですが、その途中での一番の激戦が、天正元年(1573年)8月14日の刀禰坂(刀根坂・とねざか)の戦いでした。
『信長公記』によれば、「この近江北部から刀禰坂・敦賀への撤退で、武将:38人、兵:3800人が討死した」とありますが、その数字は多少オーバーではあるものの、朝倉景行(北ノ庄城主)や朝倉道景といった一門をはじめ、山崎吉家・河合吉統などの名だたる武将もここで討死していますので、目を覆うような激戦が繰り広げられた事はまちがいないようです。
そして、信長に稲葉山城を攻め落とされた(8月15日参照>>)、あの斉藤龍興(たつおき)も、この地で死を迎えています。
稲葉山城・落城に際に、伊勢長島へと逃れ、長島の一向一揆(5月16日参照>>)や三好三人衆との同調を経て、この朝倉に身を寄せていたようですが、再び大名に返り咲く事なく散っていきました。
もちろん、激戦という限りは、朝倉勢ばかりが、倒されていたわけではなく、信長方でも、大くの死者を出しました。
そして、命こそ助かったものの、この戦いで大ケガをして、一時は危なかった武将もいます。
この時、信長勢の一人として参加していた、あの山内一豊です。
彼は、この合戦で、弓の名手・三段崎(みたざき)勘右衛門が放った矢に顔面を撃ち抜かれながらも、何とか、味方とともに勘右衛門を討ち取りますが、そのケガがかなりの深手・・・左の頬から右の奥歯の根本まで達していたのだとか・・・。
その後、部下の者に顔を踏ませて、一気に矢を引き抜いたところ血が止まらず、一度は死も覚悟しましたが、近くにあった柏の葉を傷口に当てて応急処置をとり、命を取りとめたと言います。
そうまでして討ち取ったのに、手柄は同僚に譲ったんだとか・・・ホンマかいな。
山内家の家紋が柏の葉だというのは、この逸話に由来するものだそうです。
・・・で、何とか一乗谷にたどり着いた義景でしたが、そこも攻撃され、信じていた家臣にも裏切られ、最終的には朝倉氏は滅亡するのですが、そのお話は8月20日の【朝倉義景が自刃で朝倉氏滅亡~一乗谷の戦い】でどうぞ>>。
本日の合戦を刀禰坂の戦いと呼び、この戦いと後半の一乗谷城での攻防戦を合わせて一乗谷城の戦いと呼んだりもしますが、この信長が朝倉氏を滅亡させた一連の戦いを越前征伐と呼ぶ・・・というのが一般的なようです。
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コメント
山内家の家紋については、一昨年の大河ドラマでは、一豊の父…盛豊が丹波方面での合戦に参加したおり、味方軍とハグレ、一人で敵と戦っている最中に背中に背負った旗指し物が折れたため、近くにあった柏の枝を背負って戦い続け、やっとのことで敵を斬り伏せ窮地を脱したとこで、背中の柏の枝に目をやったトコロ葉っぱが三枚だけ残っていたので、これを瑞祥として家紋に定め旗指し物の図柄にしたって話してましたよ。
投稿: マー君 | 2008年8月15日 (金) 02時15分
マー君さん、こんにちは~
確かに言ってましたね。
武田鉄矢さんが、弁士のごとくリズミカルに得々と語ってました。
どっちが本当なんでしょうね・・・というより、世渡り上手な山内家(一豊)は、主君が変わるたびに、主君にあやかった家紋にコロコロ変えるクセがあるようで、山内家の家紋は、この「三柏紋」以外にも3ツあるそうですし、この「三柏紋」が使用され始めたのは、江戸時代になってから・・・なんてお話もあるようです。
山内家に限らず、こういう合戦の逸話は話半分・・・「諸説ある」ととらえておくほうがよいかも知れませんね。
個人的には、江戸時代になってから、その家紋の由来がわからず、由来無しではカッコがつかないので、誰かが、いろんな説を語りはじめたのでは?と思っていますが・・・。
投稿: 茶々 | 2008年8月15日 (金) 10時14分
仲間由紀恵ちゃんの大ファンなモンで欠かさず見てました。オイラだって由紀恵ちゃんみたいな可愛いお嫁さんが家で待っててくれたら死に物狂いで頑張っちゃうよ。
投稿: マー君 | 2008年8月15日 (金) 17時34分
>マー君さん、またまたコメントありがとうございます~
仲間由紀恵ちゃんカワイイですね~
「ごくせん」や「トリック」で、何で、ブサイク&モテない・・・という設定なのかが理解できません。
どっからどう見ても美人です。
「だんな様、命のお持ち帰りこそが功名です」って、あの笑顔で、また、言ってほしいモンです。
投稿: 茶々 | 2008年8月15日 (金) 18時34分
山内一豊の顔を踏んだ家来の履いた草履は、代々家宝(「刺さった矢を抜くために、殿の顔を踏んでまで命を救った」ので)として彼の家に残っていたと聞きます。これは実話です。
今年の「江 姫たちの戦国」は、後半に盛り返してほしいです。最近思うんですが、低迷の理由は内容・演出どうこうではなく、「安土桃山時代を扱う作品」を、視聴者が飽きている様な気もします。
ざぶとん、ホンマにありがとうございました。(o^-^o)
投稿: えびすこ | 2011年6月16日 (木) 19時59分
えびすこさん、こんばんは~
ホント、「やるべき人はやりつくした」と言わず、いろんな時代のいろんな人を扱っていただきたいと思います。
それこそ、大河ドラマだったら、人気の戦国や幕末でなくても、大勢の人が見る気がするんですが…
投稿: 茶々 | 2011年6月16日 (木) 22時26分