大友宗麟~理想のキリシタン国家・ムシカに到着
天正六年(1578年)8月12日、大友宗麟が3万5千の大軍を率いて、日向無鹿に着陣しました。
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日向(宮崎県)中央部に一大勢力を築いていた伊東義祐(よしすけ)が、島津の攻撃に遭い、本拠地である佐土原城を追われ、豊後(大分県)の大友宗麟(おおともそうりん)の元に逃げ込んだのは天正五年(1577年)12月9日の事でした(8月5日参照>>)。
宗麟と義祐の関係は、宗麟の娘婿である土佐の一条兼定の娘が、義祐の息子・義益(よします)に嫁いでいるという縁戚関係にあったのです。
義祐の求めに応じて、日向奪回を決意する宗麟・・・しかし、これには多くの反対意見もありました。
着々と領土を広げ、もはや九州にまで、勢力を広げつつある中国の覇者・毛利元就(もうりもとなり)(5月3日参照>>)、肥前(佐賀県)の熊の異名を持つ龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)(11月26日参照>>)・・・宗麟が南に向かって出陣すれば、彼らに背後から脅かされる可能性もなきにしもあらずですから・・・。
それは、義祐の
「日向を奪回できたら、その半分をあ・げ・る」
という言葉・・・
フランシスコ・ザビエルに会って以来、深くキリスト教を信仰するようになった宗麟は、その日向の地に、以前から夢見ていたキリシタンの国を造りたいと・・・そして、何より、キリスト教とは切っても切れない南蛮貿易・・・
九州の地図を見ればわかる通り、豊後に外国船が入港するためには、必ず日向灘を通らねばならないわけで、そこが敵に渡れば、当然、船も危険にさらされる事になります。
この頃の南蛮貿易の最重要品は、硝石・・・大砲や鉄砲に使用する黒色火薬は、この硝石と硫黄と木炭を混ぜて作られていましたが、硫黄と木炭は国内で手に入りますが、硝石だけは100%輸入に頼っていました。
種子島に鉄砲が伝来して以来、日本人はまたたく間にその鉄砲を量産する技術を編み出しましたが、その鉄砲をいくらたくさん持っていても、火薬が無ければお話になりません。
宗麟に限らず、この頃の戦国大名にとって、南蛮貿易のルートを確保し、その航海の安全を図る事は、最重要課題だったのです。
天正六年(1578年)3月、義祐の息子・伊東義兵(すけたか)を道案内に、宗麟の息子・大友義統(よしむね)が、日向北部の土持親成(つちもちちかしげ)攻略に向けて出陣します。
親成は、以前は大友傘下の武将でしたが、例の伊東氏が島津にコテンパンにやられた木崎原の合戦に乗じて、その領地を奪い取って、島津氏に寝返っていたのでした。
その時は、親成だけでなく、多くの伊東氏配下の者が島津に走っていましたが、ここに来ての大友の参戦を知り、再び寝返り、義統の軍勢は3万もの大軍となり、一挙日向に進入・・・またたく間に親成の籠る松尾城(宮崎県延岡市)を陥落させ、土持氏は滅亡しました。
土持氏の滅亡を受けて、気持ちも新たに、キリスト教国家の建設を内外に表明した宗麟は、キリスト教に反対する奥さんと離婚して、正式に洗礼を受け、身も心もキリシタンとなって、海路、日向へと向かいます。
その船には、白地に赤い十字架をデザインした旗が掲げられ、その胸にはロザリオが輝き、ヨーロッパの十字軍を彷彿とさせる進軍だったと言います。
そして、天正六年(1578年)8月12日、延岡付近に上陸した宗麟は、無鹿(むしか・宮崎県延岡市無鹿)に着陣・・・理想国家の建設に着手したのです。
無鹿は、音楽=ミュージックを意味するポルトガル語・・・教会では、ビオラの演奏に合わせて賛美歌を歌い、キリストにまつわる音楽劇なども、盛んに行われていたようですから、そこから命名されたのかも知れません。
まずは、農地の開発とともに、神父や修道士たちの宿舎を建設・・・やがては、豊後のように、入院設備の整った病院や孤児を収容する施設もある一大福祉都市を目指していた事でしょう。
しかし、その理想国家が、正式始動する前に、大きく事態が動きます。
海路で日向に向かった宗麟の別働隊として陸路で南下した重臣・田原紹忍(しょうにん・親賢)の率いる2万の軍勢・・・ちょうど、この頃、その軍勢が、大友氏と島津氏の勢力範囲の境目である耳川を渡ったのです。
これは、イコール島津への進攻を意味します。
これを知った島津義久(よしひさ)は、当然の事ながら、迎え撃つべく臨戦態勢・・・
やがて、10月、田原隊は、山田有信が守る島津の前線基地である児湯郡高城(たかじょう)へと迫ります。
大友氏の将来を左右する耳川の戦いの始まりですが、そのお話は、まずは高城への攻撃が開始される10月20日【耳川への序章~大友宗麟・日向高城攻撃へ…】へどうぞ>>
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コメント
キリシタンの宗麟さんですね。私、宗麟さんのイラスト描いたことないんですので、今度描いてみようかなと思います。
日本で初めてのポルトガル製の鉄砲伝来が種子島ですね。領主の時尭が気に入って購入してからのはじまりね。そうそう、ちょうど時尭と娘のイラストが私のブログがあって、先週の土曜日に描いて更新しました。
投稿: sisi | 2008年8月12日 (火) 12時42分
sisiさん、こんばんは~
種子島時尭さんは、このブログでも、すでに登場していますが、鉄砲に出会った時は、わずか16歳の少年・・・
お固いアタマの頑固者ではなく、好奇心あふれる若者に伝わった事が、日本にとってはラッキーでしたね。
投稿: 茶々 | 2008年8月13日 (水) 00時59分