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2008年8月 5日 (火)

雅を夢みた日向の王者~伊東義祐の最期

 

天正十三年(1585年)8月5日、自ら「三州太守」と称した日向の戦国大名・伊東義祐が亡くなりました。

・・・・・・・・・・・

日向(宮崎県)中央部に勢力を誇る伊東氏・・・室町時代から続く名門の10代目・当主となったのは、武勇に優れた伊東義祐(いとうよしすけ)でした。

義祐は、婚姻を結んでいた木原氏家督相続争いに乗じて木原氏を滅ぼした後、代々、日向南部を巡って繰り返されていた島津氏との抗争でも、分家の島津忠親(ただちか)を倒して飫肥(おび・宮崎県日南市)一帯を手に入れます。

さらに、佐土原城(さどはらじょう・宮崎市)を本拠地に、「伊東惣四十八城」と呼ばれる48の支城を日向国内に配置し、自らを、日向・薩摩・大隅「三州太守(さんしゅうたいしゅ)と称して、まさに、頂点を向かえます。

義祐の上り調子は、留まるところを知らず、あの豊後(大分県)大友宗麟(そうりん)も、何とかよしみを通じようと縁戚関係を結んできます。

Iyousosisuke600acst_0000b しかし、義祐さん・・・ここで、ちょっとばかり調子に乗りすぎました~。

「わが世の春」とばかりに、本拠地・佐土原に京風文化を取り入れ、酒池肉林の贅沢三昧・・・金閣寺をまねて金箔を張りめぐらした仏殿を造ってみたり、貴族にあこがれ、歌や酒に溺れる生活を続けます。

いくら戦上手でも、これでは・・・

しかも、お隣の島津では、新たに当主となった島津義久(よしひさ)が虎視眈々と挽回のチャンスを狙っています。

そんなこんなの元亀二年(1572年)5月、島津方に属する飯野城(宮崎県えびの市)を攻めるべく進軍する伊東勢・3000を、木崎原(きざきばる)で待ち受ける島津義弘(よしひろ・義久の弟)率いるわずか300の兵が奇襲します。

不意をつかれた伊東勢は総崩れとなり、またたく間に大敗・・・この木崎原の合戦は、無勢が多勢を倒したところから「九州の桶狭間」とも呼ばれます。

この敗戦をきっかけに、伊東氏は坂道を転げ落ちるように衰退していきます。

四年後の天正四年(1576年)になって、攻撃の手を強めた義久に対して、あの48もあった支城は、ほとんど戦わずして次々と降伏し、島津の勢いに押されて寝返る者も数知れず・・・。

さらに、翌・天正五年(1577年)になって、譜代の家臣までもが寝返るという状況に至り、12月8日には義弘が野尻に着陣・・・たまりかねた義祐は、翌日の12月9日、佐土原城を捨てて、命からがら大友宗麟のもとへ逃げ込みました。

この伊東氏のあまりの衰退ぶりは「伊東崩れ」と呼ばれ、これで、宮崎の南半分は島津の物となってしまいました。

ちょうど、その頃の宗麟は、キリスト教にどっぷりと浸かりたいがため、奥さんとも離婚し、家督も息子に譲っていて、自由このうえない身の上です。

そこに転がり込んできた義祐が言うには・・・
「日向を取り返してくれたら、その半分をあ・げ・る」
と、これまた、魅力たっぷりなお誘い・・・。

「そうだ!日向にキリシタンの王国を造ろう。ついでに南蛮貿易で大儲けしよう。」
宗麟は、島津を相手に戦う決意を固めます。

この大友VS島津の一連の戦いのクライマックスがあの耳川の戦い(11月12日参照>>)です。

もちろん、義祐も、大友勢の片翼として参戦しますが、この合戦が、大友氏をも傾けさせるほどの大敗を喫してしまします。

この敗戦では、宗麟でさえ、ギリギリで母国へ逃げ帰ったような状況でしたから、当然、居候の義祐が、またまた大友氏を頼るわけにもいきません。

義祐は、そのまま、元家臣や知り合いのところを転々とする流浪生活に入ります。

やがて、息子・伊東祐兵(すけたか)が、羽柴(豊臣)秀吉に仕えるようになった縁で、「秀吉傘下に入らないか?」というお誘いを受けますが・・・
「従三位の俺が、秀吉ごときの臣下になれるか!」
と、この期におよんでも、名門のプライドを捨てきれない強気の発言で、さらに流浪生活を続ける義祐さん・・・。

そして、天正十三年(1585年)8月5日、大阪は堺の浜辺で行き倒れになっているところを発見されたのです。

享年74歳・・・豪腕の誉れ高き武将は、雅な貴族にあこがれて、没落の一途をたどりながらも、その夢を曲げる事ができませんでした。

うまく立ち回って生き残るのか?
死んでも信念を貫くのか?

生きるも死ぬも両極端・・・それが、戦国の世というものなのでしょうね。
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コメント

私が小学生持代、日向と日南にいきましたよ、きれいな海のところですね。
私、島津義久のことを思い出しました。
島津義久の娘三姉妹のイラストを描いて、
先月、美術公募で入選しましたよ。
あの三姉妹、私のブログ(7月8日)にわかると思います。

投稿: sisi | 2008年8月 7日 (木) 00時41分

sisiさん、こんにちは~。

>先月、美術公募で入選しましたよ

入選!
スゴイですね~

おめでとうございます。

投稿: 茶々 | 2008年8月 7日 (木) 10時35分

伊東義祐公という人もプライドの高い方だったンですね。ところで宮崎県飫肥市となっていましたが、正しくは宮崎県日南市飫肥(にちなんしおび)となります。蛇足になりますが、ウィキペディアによると、日南市は1950(昭和25)年1月1日に飫肥、油津(あぶらつ)、吾田(あがた)の3町と東郷(とうごう)村が合併して誕生し、その後合併を繰り返して現在の市域となっています。

投稿: アッチ君 | 2018年3月30日 (金) 22時41分

アッチ君さん、こんばんは~

アッ!ホントですね~
見つけていただいてありがとうございますm(_ _)m

この機会に、他のページもチェックしてみましたが、他はちゃんと日南市になってました(ホッ(^-^;)

恥ずかしながら誤字脱字チェックミス多き事山の如しなので、また、何か発見されたら、よろしくお願いします。

投稿: 茶々 | 2018年3月30日 (金) 23時20分

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