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2008年8月22日 (金)

瀬戸内水軍の全盛期と没落を見た村上武吉

 

慶長九年(1604年)8月22日、瀬戸内の能島村上水軍の頭領・村上武吉が、周防(山口県)屋代(やしろ)島にて、この世を去りました。

・・・・・・・・

「その島には日本最大の海賊が住んでいる。
大きな城を構え、多数の部下と多くの船舶を持ち、強大な勢力を誇るこの海賊は能島殿と呼ばれ、海辺の住民たちは、皆、貢物を献上していた」

天正十四年(1586年)に、から九州までの船旅をした宣教師・ルイス・フロイスは、瀬戸内の海上で目の当たりにした村上武吉(たけよし)率いる能島村上水軍の姿を、このように書き残しています。

そんな村上水軍の名が史料に登場しはじめるのは、室町時代の南北朝の頃から・・・。

後醍醐天皇の参謀として有名な北畠親房(きたばたけちかふさ)の孫・師清(もろきよ)が、当時、瀬戸内で活躍していた村上義弘なる人物を倒し、初代・村上水軍を名乗ったと言いますが、怪しい部分もあり。。。

伝承によれば、その師清の三人の孫が、能島(のしま)来島(くるしま)因島(いんのしま)の3つの島に移り住み、それぞれ独立した村上水軍として発展したのだそうです。

不明な点も多々あれど、
とにもかくにも戦国時代には、この三島の村上水軍が勢力を誇っていたわけで・・・

武吉は、その中の能島村上水軍の子孫・・・親類との家督争いを経て、天文二十一年(1552年)頃に、能島村上氏の頭領としての地位を確立し、来島村上氏の当主・村上通康(みちやす)の娘を妻にします。

この頃は、瀬戸内を航行する船の警固をする代わりに通行料をを徴収したり、通行許可書などを発行して、船の安全を保証するという事を本業としていました。

そんな武吉と能島水軍が、歴史の表舞台に登場するのは、あの戦国屈指の奇襲戦・厳島の戦い(9月28日参照>>)です。

Mourimotonari600 この時の毛利元就(もとなり)の手勢は、わずか4千程度・・・対する陶晴賢(すえはるかた・隆房)は、事実上、あの名門の大内氏を乗っ取って(8月27日参照>>)、今まさにノリノリ状態ですから、2万という大軍を率いて厳島へ乗り込んで来ます。

元就の作戦は、この狭い厳島に晴賢の大軍をおびき寄せ、身動き取れない状態にして奇襲をかける作戦ですが、これには海上封鎖ができなくては意味がありません。

いくら、狭い島内の陸地で追い詰めても、海に逃げられてはもともこもありませんからね。

しかし、なんせ手駒が少ない・・・。

そこで、元就は、息子の小早川隆景を通じて、武吉に働きかけ、水軍の動員を求めました。

しかし、村上水軍は大名の直接支配を受けない独立した集団ですから、果たして毛利の味方についてくれるのやらどうやら・・・。

そんな不安の中、狙い通り、晴賢の軍は、元就がおとりのために厳島に構築した宮ノ城を取り囲み、猛攻撃を仕掛けます。

それを、周囲から取り囲む毛利軍・・・しかし、水軍の姿を確認できない元就が、なかなか陸上での作戦に踏み切れないでいたところ、まさに宮ノ城が落ちようとする直前、武吉が、舅である来島水軍とともに、2~300艘の船を率いて現れたのです。

歓喜に湧く毛利軍・・・それによって、勇気づけられた元就は、陶軍への攻撃を開始し、毛利軍は勝利を収める事となったのです。

その後、元亀元年(1570年)から天正八年(1580年)にかけて石山本願寺織田信長が戦った石山合戦でも、やはり本願寺に味方していた毛利とともに、海上からの物資の補給を行ったり、大阪湾内で信長軍と交戦したりと大活躍をします(7月13日参照>>)

結局は、信長の鉄甲船に阻まれはしたものの、この戦いによって、信長をはじめとする戦国大名は、水軍の重要性を知る事となります。

しかし、信長の死後、天下を掌握した豊臣秀吉は、天正十六年(1588年)7月8日、あの『刀狩令』とともに、海の刀狩りである『海上賊船禁止令』を発布します。

海賊行為を厳しく取り締まるこの法律・・・秀吉の言う海賊行為というのは、航行する船を警固して通行料を徴収する行為も海賊行為に含まれるとみなし、まさに村上水軍の本来の行為を指していて、水軍は戦国大名の配下に収まるよう命令したのです。

すでに、秀吉の傘下となっていた来島水軍は庇護を受けますが、能島と因島水軍は、その生きる道を奪われ、拠点をも無くし、武吉は毛利を頼る事になるのですが、その毛利も関ヶ原の合戦でその領地を大幅にカットされてしまいます(2009年9月28日参照>>)

そして、周防を転々としていた武吉は、慶長九年(1604年)8月22日周防の屋代島にて、72歳の生涯を終えました。

やがて、能島と因島の村上水軍の生き残りは毛利水軍となり、関ヶ原で東軍についた来島も、徳川の政権下で豊後(大分)に領地を与えられ、その後は水軍を名乗る事はありませんでした。

戦国時代に広大な制海権を有し、戦国大名からの支配を受けない独立した水軍の時代は、ここに終わりを告げたのです。

ちなみに
記事中に出て来た因島村上水軍が、ウチのご先祖様です。
秀吉に禁止されたので、今は海賊ではありませんが・・・
 .

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コメント

海軍の話し面白く読みませていただきました、ありがとうございます。ご先祖が村上の水軍(海賊)ってすごいですね。すごく個人的な質問でWEBの中ですから、直接にお返事なくていいのですが、もしかして、前の苗字は越智さんとか中村さんですか?以前に愛媛にいたので水軍の苗字のレパートリーがあったことを思い出して書きました。勘違いなら失礼しました。

投稿: minoru | 2011年8月21日 (日) 05時23分

あ、ごめんなさい。河野水軍のまちがいかも知れません。

投稿: minoru | 2011年8月21日 (日) 05時26分

minoruさん、こんにちは~

今は変わりましたが、
旧姓は、そのまんまの村上水軍です(*゚▽゚)ノ

家紋は「○に上」ではなく「ヘキサゴンに上」ですが…

投稿: 茶々 | 2011年8月21日 (日) 12時40分

わーそうなんですか、コメントありがとうございます。茶々さんの先祖は、瀬戸内海の方なのですね。大阪の方かと思ってました。

投稿: minoru | 2011年8月21日 (日) 15時04分

minoruさん、こんにちは~

私は大阪生まれの大阪育ちですが…(^-^;

母方は、家紋が「土岐桔梗」なので土岐氏かと思っていたら、「維新までは高松の士族だった」との事なので讃岐の尾藤さんかも知れません。

いろいろ考えると楽しいです。

投稿: 茶々 | 2011年8月21日 (日) 18時13分

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