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2008年8月24日 (日)

船岡山の戦い~いよいよ戦国の幕が上がる

 

永正八年(1511年)8月24日、室町幕府の管領・細川政元亡き後に勃発した、一連の後継者争いの中の、『船岡山の戦い』がありました。

・・・・・・・・・

乱世の梟雄と呼ばれた管領・細川政元・・・

彼が、その時代の実力者の意向によって幕府の将軍が交代するというクーデター『明応の政変』をやってのけた事は、すでに書かせていたいてますが(4月22日参照>>)下克上を以って、自ら戦国の幕を開けた男は、家臣の暗殺という下克上で命を落しました。

そんな政元は、生前、女性をまったく寄せ付けず、はなから男一本の生活を送っていたために、当然の事ながら、その子供は養子ばかりが三人・・・

関白・九条政基(まさもと)の子・澄之(すみゆき)
阿波(徳島県)の細川家から来た澄元(すみもと)

そして、備中(岡山県)細川家の高国(たかくに)・・・。

実は、政元の暗殺は、先に澄之が後継者に指名されていたにも関わらず、政元が、後からやってきた澄元を新たな後継者と指名したために、危機感を抱いた澄之の家臣の仕業による暗殺と言われています。

永正四年(1507年)に、政元を暗殺した彼らは、すぐに、時の室町幕府将軍・第11代足利義澄(よしずみ)に働きかけ、澄之を細川管領家の後継者と認めさせる事に成功します。

この異変に危機感を感じ、一旦、近江へ逃れていた澄元は、地元の国人たちを味方につけ、阿波時代からの重臣・三好之長とともに挙兵・・・三人目の養子である高国は、養父の遺志もあってか、この澄元に従い、ともに澄之討伐に立ち上がり、見事、澄之を討ち取ります(8月1日参照>>)

なので、当然ですが、将軍・義澄は、今度は澄元が細川管領家の後継者である事を、認める事に・・・

あっちへフラフラ、こっちへフラフラ・・・将軍たる者が何やってんだ!と思ってしまいますが、この将軍・義澄は、亡き養父・政元がかの『明応の政変でまつり上げた、あやつり人形的将軍ですから、そりゃ、言われるがままに、認めますわな。

しかし、この家督争いのゴタゴタを好機と見て、虎視眈々とチャンスを狙っていたのが、周防(山口県)の戦国大名・大内義興(よしおき)でした。

そんな中、永正五年(1508年)頃から、澄元と対立するようになった高国が、その義興と手を組み、再三に渡って澄元を攻撃するようになります。

こうして、一連の合戦を優勢に導いた高国らは、政元に追放されていた前(10代)将軍・足利義稙(よしたね・義材)を奉じて京に上り、強引にも、現在の将軍・義澄を追放し、義稙を将軍に復活させてしまったのです。

さらに、高国らは、澄元の本拠地・阿波から助っ人が大挙押し寄せては困る!とばかりに、永正八年(1511年)7月26日、摂津の芦屋河原(あしやがわら・兵庫県芦屋市)に、澄元方の細川尚春(ひさはる)を攻めて勝利をおさめます(芦屋河原の戦い)

しかし、船岡山の前哨戦とも言えるこの合戦の直後、一族の細川政賢(まさたか)と、播磨(兵庫県)赤松義村が、相次いで澄元側へ寝返ってしまったのです。

特に、義村は猛将として知られた人物で、その影響は大きく、形成は一気に澄元側有利へと展開します。

この勢いに乗って高国を討つべく、8月15日に京都へと侵攻した政賢と義村に対して、このまま戦っては不利と考えた高国らは、一旦、丹波(京都府)まで退き、そこで兵を集め、態勢を立て直すのでした。

やがて、短期間に2万の軍勢を整える事に成功した高国・・・いざ、京都へと進撃し、高雄(京都市)に陣を敷きます。

一方の澄元も、高国の動向を知り、こちらは、船岡山(京都市)防御施設を構築し、敵の進入に備えます。

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船岡山頂上より京都市街を望む

かくして永正八年(1511年)8月24日、両者は船岡山の付近で激突する事となります。

この時の高国の軍勢は、高国と義興の兵に、丹波で集めた兵を加えて2万5千だったと言います。

Dscf0141a1000 対する澄元は・・・実は、阿波から援軍が駆けつける事になってはいましたが、この24日の時点では未だ到着せず、総勢6千程度・・・しかも船岡山に構築した防御も未完成でした。

さらに、澄元側が掲げている将軍・義澄も、この間に病死してしまいました。

それでも、士気だけは衰えず、何とか踏ん張りますが、やはり数の差は大きく、澄元勢はしだいに劣勢となっていきます。

やがて、政賢をはじめとする名だたる武将が討死し、澄元は摂津へ敗走・・・高国側の勝利となり、事実上、京は高国が制する形になりました。

この合戦の後、義興は約10年間、高国を補佐するために京都に在住する事になるのですが、その間に、世の中は各地の戦国武将が群雄割拠する乱世の時代へと変化していく事になります(8月27日参照>>)

そして、その義興が国許へ帰国した事をキッカケに、澄元が動き始めるのですが、そのお話は
【管領家後継者争い~高国VS澄元の腰水城の戦い】>>
【室町幕府管領職・争奪戦~等持院表の戦い】でどうぞ>>
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