阿津賀志の戦い~進む頼朝VS防ぐ泰衡
文治五年(1189年)8月10日、源頼朝の奥州遠征軍が、阿津賀志山の戦いで藤原泰衡軍を撃破しました。
・・・・・・・・・
兄・源頼朝(みなもとのよりとも)の命に従って、壇ノ浦の合戦(3月24日参照>>)で平家を滅亡させた弟・源義経(よしつね)でしたが、その後、兄弟の不和は決定的となり(5月24日参照>>)、昔お世話になった藤原秀衡(ひでひら)を頼って、奥州へと落ちのびます(11月3日参照>>)。
しかし、義経到着後まもなく、大黒柱の秀衡が亡くなり、その後を継いだ息子の藤原泰衡(やすひら)・・・頼朝は、朝廷から義経追討の院宣(天皇の命令)を取りつけ、この若き当主に、「天下の謀反人をかくまうと大軍で攻めちゃうよん」と、散々プレッシャーをかけます。
この間、院宣が出るたび、頼朝の使いが来るたびに、泰衡は、「おっしゃるとおりにやりまっせ!」との返事をしながら、まったく動く気配を見せませんでした。
この泰衡の行動は、「冷静沈着に鎌倉の出かたを見ていた」との見方と、「頼朝は怖いわ義経は頼るわで、どうしていいかわからなかった」との、二つの解釈に分かれるところです。
実際、頼朝も「泰衡の心中、測りがたし」と思っていたようですが、結局、泰衡は、文治五年(1189年)の4月30日、義経の衣川の館を攻めて自刃に追い込み、義経の首を頼朝に差出します。(4月30日参照>>)
ただ、これも、上記のように泰衡が冷静沈着で聡明な人物だと見る前者の場合は、義経を実際に攻めたのは当主の泰衡ではなく、兄弟の誰かであったとの見方が強いようですし、逆に、泰衡が臆病者の愚将だったとする『吾妻鏡』を重視する後者の場合なら、泰衡が恐怖に怯えて頼朝に屈したとの、2種類の見方ができるのでしょうが、吾妻鏡は、この時代を語る基本の史料ではありますが、あくまで鎌倉幕府の正史・・・つまり、頼朝・北条側の言い分である事も踏まえておかねばならないでしょう。
・・・とは言いつつも、吾妻鏡に沿ってお話を進めていきますと・・・
とりあえず、ここで義経は死に、万事解決・・・と思いきや、頼朝は義経の首を確認したわずか8日後の6月25日、朝廷に『泰衡追討の院宣』を求めるのです。
かくして、文治五年(1189年)7月19日、頼朝率いる奥州遠征軍は鎌倉を出発します。
この時、遠征軍は3つのルートに分かれて進軍します。
見にくければ画像をクリックして下さい、大きいサイズで開きます
(このイラストは進軍ルートをわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)
頼朝自らが、畠山重忠とともに率いる本隊はまん中のルート。
千葉常胤(ちばつねたね)率いる別働隊は太平洋側。
比企能員(ひきよしかず)率いる別働隊は日本海側。
この3つのルート・・・本隊が進むのはまさに、東北新幹線と東北自動車道のルート。
太平洋側の別働隊は常磐線・常磐自動車道で、日本海側の別働隊は上越線・関越自動車道のルートです。
今でこそ、こういう風に地図を眺めて、東北に行くならこのルート・・・と、判断する事ができますが、約千年の昔に、この3つのルートを押えての北上は、見事なものですね。
片や、泰衡は・・・
「阿津賀志山において城壁を築き、要害を固め、国見宿と、かの山との中間に、にわかに口五丈の堀を構え、逢隈川(阿武隈川)の流れを堰(せ)き入れて柵とし、異母兄西木戸国衡をもって大将軍となし・・・」
福島県伊達郡国見町、今も防塁跡が残るという阿津賀志山(あつかしやま)・・・ここを、泰衡は防御の要とみたようです。
さらに、その後方、苅田郡にも城廊を築き、名取・広瀬の両川に大縄を引いて柵とし、自らは国分原鞭楯(むちのたて・仙台市宮城野区)に陣を敷きます。
私、このあたりに地の利が無いのですが、確かに地図で見る限りでは、東北新幹線がトンネルに次ぐトンネルで、おそらくは大変険しい、天然の要害のような地形である事は察しがつきます。
先ほどの見事なルートで進軍する頼朝を迎え撃つ泰衡も、確かに、ここを押えると、この先への北上は難しいと思われる見事な選択です。
・・・が、しかし、文治五年(1189年)8月8日から、9日・10日・・・と、3日間にわたる激戦が繰り広げられ、10日には、大将であり泰衡の異母兄である西木戸国衡(くにひら)が和田義盛に討たれ、副将クラスであった金剛秀綱(こんごうひでつな)が小山朝光(おやまともみつ)に討たれるに至って、この鉄壁の防御線は、頼朝軍に突破される事になります。
完璧とみられた防御でしたが、逆に、そこを突破されてしまうと、その先は防ぎようもなく、簡単に、更なる北上を許してしまう事になってしまい、泰衡は撤退を余儀なくされ、平泉をも捨てて、北へ逃亡するしかなくなってしまうのです。
では、この敗戦の原因はどこにあったのでしょう?
どうやら、それは兵力の差にあったようです。
俗に奥州17万騎と言われて、中央から恐れられた藤原氏の兵力ですが、悲しいかな、この兵力は農民の延長上にある武装集団であり、プロの戦闘集団ではありません。
8月と言えど、これは旧暦で、しかもこの年は4月に閏月があったので、この8月10日を太陽暦に換算すると、1189年9月28日となります・・・ひょっとして、東北では刈り入れの最盛期頃なのでは?
なので、実際に泰衡が召集できたのは、1万~2万ではなかったか?と言われています。
対する頼朝軍は・・・24万4千騎とありますが、さすがにこれは多すぎ・・・その前の源平の合戦の事を踏まえて、おそらくは数万騎強くらい?
その3分の一が日本海側の別働隊としても、4万~5万はくだらなかった・・・とすれば、泰衡軍の倍ほどの兵力があった事になります。
こういう場合、数で劣る側は、神出鬼没なゲリラ戦を展開するのが鉄則ですが、泰衡は徹底した防御戦に挑んだ・・・結果論になるかも知れませんが、それが、敗因だったかも知れません。
防御線を突破された泰衡は、平泉に火を放ち、さらに北へ逃亡し、厨川柵(岩手県盛岡市)にて家臣の河田次郎に殺害され、奥州藤原氏は滅亡する事になるのですが・・・
ただし、先ほどから書いているこの逃亡というのも、吾妻鏡の記述・・・さらに、その中では、「泰衡周章(しゅうしょう)度を失いて逃亡し・・・」
つまり、メチャメチャ慌てふためいて逃げたと書かれていますが、お察しの通り、泰衡が慌てふためいたかどうかは、彼の側近は見ていたかも知れませんが、鎌倉側の人間である吾妻鏡の筆者が見る事は無かったはず・・・
もしかして、泰衡が吾妻鏡に書かれているような愚将ではなく、もう一方の冷静沈着な智将だったとしたら、頼朝の大軍が怖くて逃げたのではなく、何か再起の手立てがあって北へ向かったのかも知れません。
一説には、衣川を脱出して北へ向かった義経と合流するはずだった・・・なんて、荒唐無稽な伝説もあるくらいです。
だからこそ、阿津賀志山の戦いで防御一本に徹したのかと・・・
刈り入れがピークという事は、あと少し待てば、農繁期を終えた大量の兵力が期待できます。
しかも、東北の冬は早い。
その頃には、もう空はみぞれまじり・・・鎌倉武士よりも、はるかに山岳移動に長け、雪道に慣れた奥州17万騎が、そこにいたかも知れません。
頼朝が、奥州17万騎を活用できない農繁期を狙って合戦を仕掛けたなら、泰衡は、それを逆手に取って、抵抗しつつ合戦を引き延ばし、冬が来るのを待とうとした・・・なんだか、互いの作戦にワクワクしますね~
ただ、さすがの智将も、一旦撤退して身を寄せた身内に殺害されるかどうかまでは、予想ができなかった・・・ひょっとしたら泰衡は、志半ばで無念の末路を迎えたのかも・・・
またまた悪いクセの判官びいきですが、つい、味方をしてみたくなります。
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