徳川家治・暗殺疑惑~犯人は誰だ!
天明六年(1786年)8月25日、江戸幕府・第10代将軍の徳川家治が、50歳でこの世を去りました。
・・・という事で、今日はちょっと雰囲気を変えて、サスペンス風に、問題定義してみました~。
ご一緒に、推理を楽しんでみてください。
・・・・・・・・・・・
さて、賢明なる探偵諸君!
今日、君たちに集まってもらったのは、他でもない。
この将軍・徳川家治の死・・・どうも、以前から毒殺説が耐えないのだ。
そもそも、疑惑の死は彼の息子から始まる。
彼がもうけた二男二女は、いずれも早世しているのだが、特に後継ぎとされていた家基(いえもと)・・・この家基が生きていれば、なんの問題もなく後継者になったはずなのだが、彼は安永八年(1779年)2月に、鷹狩の帰りに寄った寺で突然苦しみだし、その3日後に18歳の若さで急死している。
その時、息子を失った家治の落ち込みようは、大変なものだったらしい・・・なんせ、聡明の誉れ高かった家治が、それからは、幕政のほとんどの事を、老中の田沼意次にまかせっきりになってしまったようだからね。
そのために、この家基の急死は、その死の直後から、田沼が毒殺したのではないか?との噂が流れているのだが、とりあえず、今日は、この一件とは切り離して、家治の死についての推理をしよう。
息子・家基の死から7年後に訪れた家治の死・・・これも、病死でないとしたら、やはり毒殺?という事になるのだが、まずは容疑者の洗いだしだ。
容疑者1:田沼意次
病床の将軍・家治の治療担当が、彼の紹介した町医者に変わったとたんの死であった事から、彼が犯人ではないか?との噂が流れている。
田沼は、諸君もご存知のように、土地政策や経済政策に腕を振るった政治家だが、多くの商人との癒着も噂され、賄賂政治家(10月2日参照>>)のイメージも強い事から、「田沼ならやりかねない」と、誰もが思うのは確かなのだが、動機の面では薄い・・・
田沼は、先代の徳川家重の代から、2代に渡って重要視されているが、むしろ、こちらのほうが異例であって、本来は、将軍が交代すれば、重役や側近も交代するのが常であったわけだ。
現に、家治の死とともに、田沼は失脚している。
将軍が、代われば、自分の立場も悪くなる事が、予想がついていた田沼が、家治を暗殺しても、何の得も無い事になるな。
容疑者2:徳川治済(はるさだ)
逆に、動機ありありなのが、この一橋徳川家の当主・治済だ。
家治の息子・家基が亡くなった事で、将軍の跡取りがいなくなったわけだが、そういう場合は、御三家とともに、暴れん坊・吉宗の時代に定められた田安・一橋・清水の御三卿の中から世継ぎが選ばれる。
結果、第11代将軍になったのは徳川家斉(いえなり)・・・家斉は一橋家の出身だから、つまりは治済の息子だ。
よって、家治が死んだ事で一番得をしたのは一橋家という事になるな・・・もちろん、これには、冒頭の家基・暗殺疑惑もからんでくるのだが・・・。
実は、先の田沼の弟が一橋家の家老を勤めていた事で、この家斉擁立には、父の治済だけではなく、田沼の力も働いたとされ、暗殺説には、田沼+治済・共謀説も浮上するのだが、やはり、ここでも、協力したところで田沼には何の得もない。
容疑者3:松平定信
田沼が賄賂政治家であるというレッテルを貼ったのも、毒殺の犯人であるとの噂を流したのも、多分この定信だろうが、将軍が代わって田沼が失脚し、その次に老中になるのだから、この人も得をした者の一人という事になるかな?
しかも、この人には、怨恨という動機までからんできそうだ。
なぜなら、この定信は、先の御三卿の一つ、田安家の出身・・・本来なら、一番目に名前が上がってもおかしくない将軍候補だったのだ。
ところが、田沼のゴリ押しで松平定邦の養子に決められてしまう(6月19日参照>>)・・・さらに、病弱な兄が亡くなり、後継ぎがいなくなった田安家には、家斉の弟・・・つまり治済の息子・斉匡(なりまさ)が入る。
定信から見れは、実家が一橋に乗っ取られた事になる。
だいたい、この老中になったのも、まだ15歳で将軍になった家斉を、28歳というバリバリの年齢の定信が補佐するという意味合いがあったと言われているが、もし、定信がそのまま田安家に居れば、年齢的にも、当然のごとく将軍の座がまわってきそうな事を考えると、確かに、怨みは強そうだ。
しかし、恨むなら家治ではなくて、一橋家か、田沼だろう。
実際に、田沼にはそうとうな怨みがあったようで、だからこそ賄賂政治家だとか、暗殺しただとかの悪口を言いまくったわけだが、その田沼を失脚させるための暗殺なら、そんな回りくどい事をせずとも、田沼本人を暗殺すればいい事になる。
せっかく、恨む気持ちを理性で抑え、地道に出世してきたのに、何も、ここで手を汚す事は無いのだからね。
以上、三人の容疑者を考えてみたが、もちろん他にも疑わしい者がいるかも知れないし、単なる病死かも知れない・・・。
はてさて、君たちはどう推理するかな?
さぁ、意見を聞かせてくれたまえ!
・‥…━━━☆投票結果☆・‥…━━━☆
- 田沼意次・・・7票
- 徳川治済・・・24票
- 松平定信・・・18票
- 田沼+治済・・・8票
- その他・・・9票
- 病死・・・22票
以上のような結果となりました。
ご協力、まことに感謝しますo(_ _)oペコッ
ありがとうございました!
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コメント
その他に1票入れました。
私は、自殺を思い浮かべました。
聡明な子供時代、お祖父様 (吉宗) にも可愛がられ、おそらく、とかく蔑ろにされていた父親とは天と地程の違いで、晴れやかな行事の場などでは、人気アイドルの様にチヤホヤされて過ごしたことと察します。
結婚も幸せ、一男が授かった時には 人の世の喜びの極みを感受出来たと思います。
そうやって、苦労をしないで大人になった人間は、この世の試練に耐える力を持たないものです。
愛子の早い死、普通でもそれは乗り越え難い苦しみです。
遂に、齢50となって、自分自身の健康にも何か不安を感じ始めていたのかもしれません。
医者から渡された薬を飲む振りをして、飲まなかった ・ ・ ・、死は速やかにやってきた。
以上、想像のシナリオです。
投稿: 重用の節句を祝う | 2009年6月 6日 (土) 12時25分
重用の節句を祝うさん、こんばんは~。
そうですか・・・自殺・・・
将軍ともなると、他の人にはわからない悩みもありますからね~
ありがとうございました~
また、時々、経過を見にきてください!
投稿: 茶々 | 2009年6月 6日 (土) 22時27分
始めまして
脚気で死んだと言う説もあります。
白米ばかり食べて、江戸患いと言う
別名もあったくらいですから。
息子の方は暗殺説があるみたいですね。
投稿: ミント | 2014年12月 9日 (火) 11時17分
ミントさん、こんにちは~
そうですね。
江戸時代は、脚気も、命にかかわる病でしたから…
投稿: 茶々 | 2014年12月 9日 (火) 16時35分