新選組を表舞台に押し上げた八月十八日の政変
文久三年(1863年)8月18日、薩摩・会津の両藩が、尊皇攘夷派の公家を京都から追放・・・世に言う『八月十八日の政変』がありました。
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あのペリー来航(6月3日参照>>)以来の幕府の弱腰な外交から、攘夷派(外国人出て行け派)は天皇への期待を持つようになり、尊皇派(天皇中心派)と結びついて、尊皇攘夷派という派閥になります。
一方の佐幕派(幕府中心)の代表格であった大老の井伊直弼(いいなおすけ)は、そんな尊皇攘夷派を厳しく弾圧する安政の大獄(10月7日参照>>)を決行しますが、その井伊直弼が桜田門外の変(3月3日参照>>)によって暗殺され、もはや幕府の権威は地に落ちてしまいました。
そこで幕府(武)は、朝廷(公)と融合してその関係を修復するとともに尊皇攘夷派を押さえ、国内を一つにまとめようとします。
これが、『公武合体』・・・その象徴として行われたのが、第14代将軍・徳川家茂(いえもち)と、孝明天皇の妹・和宮(かずのみや)の結婚でした。
井伊直弼の後を引き継いで、その結婚を成功させた安藤信正でしたが、彼もまた、水戸脱藩浪士たちに襲われた坂下門外の変で失脚してしまいます(1月15日参照>>))。
その後、公武合体の政策を引き継いだ薩摩藩主の父・島津久光が、尊皇攘夷派を一掃しようと動きはじめ、江戸に乗り込んで幕府改革を要求・・・政事総裁職に松平慶永(よしなが)が、将軍後見職に徳川慶喜(よしのぶ)が、京都守護職に会津藩の松平容保(かたもり)が任命されます。
しかし、当時は、朝廷内でも、尊皇攘夷派と公武合体派に分かれていて、その尊皇攘夷派の三条実美(さねとみ)らが、やはり尊皇攘夷派に傾いていた長州藩と接触し、文久三年(1863年)の5月10日を以って、攘夷(外国追い払い)を実行するように主張し、各藩に命令を下したのです。
そこで、朝廷内での公武合体派であった中川宮(青蓮院宮)朝彦親王(2009年8月18日参照>>)が、先の薩摩と会津と結びついてクーデターを起こすのです。
文久三年(1863年)8月18日、武装した薩摩・会津・淀藩の兵が京都御所内に入ると、すべての門が閉ざされ、尊皇攘夷派の公家が御所に入る事を禁止し、それまで長州藩が守っていた堺町御門の警備を解任し、交代に薩摩藩が警備する事としました。
宮廷内は公武合体派で固められ、尊皇攘夷派の公家たちは、中に入れてもらえず、長州藩兵も、硬く閉ざされた門に近づく事さえ困難な状態・・・。
薩摩・会津藩兵とにらみ合い、一触即発の状態となりますが、「長州藩は撤兵せよ」との勅命(ちょくめい・天皇の命令)が出た事で、長州藩はやもなく撤退します。
翌日、長州藩の京都退去、尊皇攘夷派の公卿の洛外退去が命じられ、三条実美ら7人の尊皇攘夷派公卿は、長州藩を頼って京の都を去りました。
こうして、表向きは、京都から尊皇攘夷派が一掃されましたが、当然の事ながら不満モンモンの長州藩士らが、このままで終るわけもなく、京都周辺に潜伏して、水面下で勢力挽回の機会を狙う事になります。
京都の町に潜む、そんな尊皇攘夷派の探索に当たったのが、京都守護職・松平容保の配下となった、あの新選組です。
政変直後には、孝明天皇も容保に・・・
「無茶な事、ムリヤリするさかいに、いややなぁって思って命令出したら、速やかに一掃してくれて・・・君の忠誠心には、ホンマ感謝するで」
的な手紙を送っています(12月5日に後半部分参照>>)。
この一連の出来事で、京都を守る容保と新撰組は大人気となり、その活躍の頂点を迎える事になります。
この後は、起死回生を狙って、容保らの暗殺を計画していたところへ、かの新選組が踏み込む池田屋騒動(6月5日参照>>)・・・
そして、長州藩が大挙押し寄せて、御所周辺で抗争となった禁門(蛤御門)の変(7月19日参照>>)へと続いていきます。
・・・が、しかし、この時、天皇にその忠誠心を感謝された容保と会津藩も・・・
そして配下の新選組も・・・
その後の時代の波の中、最初の思いを貫く者と、新しい世界を夢見る者のはざまで揺れ動き、最終的には朝敵となってしまう・・・
何と、運命とは皮肉なものなのだろうと、考えさせられますね。
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