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2008年8月21日 (木)

太良荘の一揆起請文に残る…中世の名も無き人の名前とは?

 

建武元年(1334年)8月21日、若狭国(福井県)太良荘(たらのしょう)にて、百姓・59名が、地頭代官の交代を要求して起請文を提出し、一揆を起こしました。

・・・・・・・・・・

福井県は、今も、小浜(おばま)の市街地にほど近い場所でも、当時を彷彿とさせる、のどかな農村地帯あったりする場所ですが、かつて、ここにあった太良荘は、鎌倉時代中期から室町時代の中期までの約250年間、京都は東寺の荘園でした。

Dscn2789a800 以前、『たまがきの恋物語』(7月26日参照>>)新見荘(岡山県)も東寺の荘園で、東寺には、今も多くの史料が残されている事を書かせていただきましたが、新見同様、この太良荘に関する文書も、東寺には多数残されているのです。

そんな史料の中の一つである今回の起請文ですが・・・

「泣く子と地頭には勝てぬ」という言葉でもおわかりのように、そもそもは鎌倉時代から、もともとある田畑に、なんだかんだと理由をつけちゃぁ、新たな税を徴収したり、用水を利用すりゃぁ、お金を払え!払わないと水泥棒として捕まえる・・・なんて事が、くりかえし行われていて、農民たちは、幾度となく、六波羅探題に訴えたりしていました。

しかし、そんな鎌倉幕府が崩壊した混乱の中、ますます治安は悪くなり、略奪行為がひんぱんに行われるようになり、その警固のために、新たな地頭代官が任命され、この太良荘にやってきたのですが、この脇袋という代官・・・荘園内の家屋をぶっ潰して勝手に城を構築したり、私用の無理難題をふっかけてきたりと、やりたい放題・・・。

その横暴ぶりを、何度も東寺に訴えますが、まったく聞き入れてもらえず・・・そこで、建武元年(1334年)8月21日、あの建武の新政(6月6日参照>>)を風刺した落書が二条河原に立ったと同じ月、堪忍袋の緒が切れた百姓・59名が立ち上がり、代官の交代を求める起請文を提出し、一揆に踏み切ったのです。

・・・という事で、本日は、この太良荘の一揆の起請文の署名から、当時の一般の人々の名前について迫ってみたいのですが、かくいう私も、この太良荘の事を知るまでは、ほどんど一般人の名前という物がどんな風だったのか知りませんでした。

武将や公家の名前は教科書に出てきますが、一般人の名前は出てきませんから・・・。

明治になって、「国民全員、苗字つけろ」の令が出るまで、皆、苗字が無いものと思っていましたし、時代劇や昔話などでよく登場する権兵衛さんとか、三太とかっていう名前が多いのかな?と思ってましたが・・・

太良荘を形成していた人々は、2~3町の土地を所有する本百姓の名主クラスが数名と、あまり良くない土地の小百姓・・・さらにその下に属する農地を持たない下層の人々です。

以前、『一揆へ行こう』(6月9日参照>>)のページで書かせていただいたように一揆の署名は順不同という事なので、まずは、同じような名前の人をグループ分けしてご紹介します。

  1. 僧実円・僧禅勝・僧長弁
  2. 大山貞重・大山正弘・中原吉安・六人部国正・秦正守・物部宗弘
  3. 沙弥法円・沙弥浄法・沙弥善阿弥・沙弥妙阿弥・沙弥本阿弥
  4. 浄妙
  5. 中大夫・平大夫・矢大夫・矢二郎大夫・五郎大夫・新大夫・惣大夫・角大夫・美濃大夫
  6. 中介・江介・三郎介・和山介・豊前介
  7. 新検校・惣別当・安寿
  8. かい丸・牛丸
  9. 細工大夫・中細工・孫太郎細工
  10. 藤内・源内
  11. 中江
  12. 孫太郎・孫二郎×2・孫四郎・孫五郎・彦二郎×2・彦三郎・弥二郎・中二郎・中三郎・平二郎・藤二郎・惣四郎・進士二郎・二郎太郎・三郎太郎×2

以上、1名分だけ、文字が読めなくなっている部分があるため、合計58名です。

この中のグループ1の「僧」がつく3名は、花押(ハンコ代わりのサイン)も持っていて一般農民とは別格なようです。

一応、僧実円僧禅勝が、この一揆のリーダーだったと言われています。

そして、グループ2の6名も、姓と名の実名を署名している事からやはり別格・・・「秦(はた)「物部(もののべ)などは、古代の豪族の名前ですが、子孫という事ではなく、勝手に名乗ってるわけで、このような名前を名乗っても、もはや怒られない時代になっていたって事なのでしょう。

この1と2のグループの中の何人かが名主クラスだったと思われます。

次に、グループ5と6の「大夫」「介」は、古代の官位名ですが、これは本名というのではなく、ある一定の年齢になると儀式を行って、それ以降は「大夫」や「介」をつけて呼ぶ通称というヤツです。

武士が元服して、大人っぽい名前に変えるのとよく似ていますね。

グループ7の「検校(けんぎょう)」「別当」「安寿」などは、寺院や官庁の役職名・・・たとえば、別当なんかも、以前は、○○別当=○○長官みたいな感じで使われていましたが、これも、この時代には、もうお百姓が名乗っても怒られなかったって事なんでしょうね。

このグループ7あたりまでが、小百姓クラスの人ではないでしょうか?(自信ないですが・・・)

グループ8の「丸」は本来は、武士の幼名に使用する名前ですが、起請文の署名という物は各家庭の代表者がするものなので、このお二人はおそらく成人した方・・・ただし、運搬業にたずさわる人は、成人しても「丸」を名乗っていたらしいので、牛丸さんなんかは、おそらく、牛を使って運搬業を営んでいたのかも知れません。

グループ9の「細工」というのは、ご想像通り、細工師=手工業者の方々・・・この「細工」の中には、「大夫」のつく人もおられますが、先ほどもあったように、「大夫」は大人という意味を表すので、この細工大夫さんは、細工師の中でも重鎮だったんでしょう。

最後に、グループ12・・・「太郎」とか「二郎」「三郎」とかっていうのは、お察しの通り、おそらく生まれた順でしょうね。

「孫」「彦」「弥」は、この時代の標準的な名前で、「藤」「平」「源」は、グループ10や11にもありますが、藤原氏・源氏・平氏などの姓を名前に取り入れたものです。

この中で、もし、女性がいるとしたら、鎌倉時代に同じ名前の女性がいるようなので、「浄妙」という名前のかた・・・この時代、一家の代表は、やはり成人男性という事になりますので、必然的に女性の名前が少なくなるでしょうね。

以上、起請文の署名を見てみましたが、本来、名主クラスのお百姓と、下層の人たちとでは、それぞれに確執があって、普段はなかなかうち解けあえるものではなかったでしょうが、相手が地頭となると、一揆を結んで、このように名を連ね、ともに立ち上がった・・・

その名前を見るだけで、中世の名も無き人々が、その命を賭けて、家族と土地を守った、その強い情熱を感じます。

歴史を作ったのは、名のある武将や貴族だけではない事を、ひしひしと感じる次第です。
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コメント

僧〇〇は、苗字と考えるより本当の僧侶と見るべきではないでしょうか。東寺の末寺の僧侶が地域住人の惨状を目の当りにし、自分達も本山に物申そうと起請文に名を連ねたのではないですかね。

投稿: マー君 | 2008年8月21日 (木) 13時16分

マー君さん、こんにちは~

起請文の差出人が百姓59名という事なので、苗字ではないか?と考えました。
おっしゃる通り、僧侶である可能性もあるかと思いますが、荘園領主が「百姓」と明記する以上は、農業に従事し年貢を納める立場にあった人物ではないか?と思った次第です。

一般的な史料では、あまりくわしく書いてないので、大学の資料室などの専門的な場所なら、もう少しわかるのかも知れませんね。

投稿: 茶々 | 2008年8月21日 (木) 15時23分

2の大山、中原、六人部、秦、物部という古代の氏を、中世に名乗っているからといって、勝手に名乗っているというのはいかがなものか。

少なくとも半布里戸籍を初めとした古代戸籍には秦、物部といった氏が多く見られる。起請文の面々も、部民制以来の先祖伝来の氏を名乗っているだけだろう。

氏を名乗っているのは、当時の太良荘では、まだ庶民階級に家名としての苗字を名乗る習慣が無かったのかもしれない。

投稿: 正円右馬 | 2022年2月12日 (土) 19時55分

正円右馬さん、こんばんは~

おっしゃる事は、無きにしも非ずではありますが、本文にも書かせていただいた通り、これは、荘園領主に宛てた一揆の起請文で、差出人は百姓・59名と明記されていますから、彼らの身分が百姓である事は、ほぼ間違いないと思われます。

本姓を、そのまま苗字として名乗るのは、あまり聞いた事がありません。

たとえば、現在苗字が藤原さんの方は、あの平安時代の藤原道長らの、本姓が藤原の血筋とはまったく関係のない方々で、藤原氏の子孫の方の苗字は、公家系の場合は有名なところでは鷹司とか近衛とか、武家では佐藤や近藤など…苗字は別になりますね。

秦氏にも、地下家として生き残った東儀さんや、有名な島津がありますね?

物部は蘇我との戦いで負け組となって、生き残ったほとんどが社寺の奴婢など、かつての身分をはく奪されてしまっているので、はっきりしているのは石上神宮の神職として復権を果たした石上氏くらいでしょうか?

中世に入ると武家でも本姓がウヤムヤな場合が多々ありますから、その時点での身分がお百姓なら、先祖の本姓は、かなりウヤムヤになってるかも

もちろん、歴史に「絶対」という事はありませんので、そうやって一旦埋もれた方々が、百姓や下人として生き残った可能性もゼロではありませんから、そこらあたりを探究していくとオモシロイかも知れませんね。

投稿: 茶々 | 2022年2月13日 (日) 01時55分

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