白虎隊・飯盛山に散る
慶応四年(明治元年・1868年)8月23日、戊辰戦争で、新政府軍の攻撃を受けた会津藩の白虎隊が、城下の飯盛山で自刃しました。
8月23日は『白虎隊の日』という記念日にもなっているそうです。
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慶応四年(明治元年・1868年)正月の鳥羽伏見の戦い(1月2日参照>>)に始まった戊辰戦争は、江戸城無血開城(4月11日参照>>)を経て、舞台は北へと向かいます。
7月29日に越後(新潟県)長岡城を陥落させた(8月16日参照>>)新政府軍の、次のターゲットは会津・・・なんせ、あの八月十八日の政変(8月18日参照>>)で、京都から追われた長州の討幕派は、新撰組によって徹底的に弾圧された過去がありますから・・・。
その新撰組は、当時、京都守護職だった会津藩の松平容保(かたもり)の指揮下にあったわけで、新政府軍にとって会津は、何としてでも倒しておきたい相手だったのです。
もちろん、その事は会津も承知・・・徹底抗戦になるのは間違いないとばかりに、新政府軍の来襲に備えて、正規軍を年齢別の4隊に分けて、日々訓練に励んでいました。
50歳以上の玄武(げんぶ)隊
36歳~49歳の青龍(せいりゅう)隊
18歳~35歳の朱雀(すざく)隊
そして、15歳~18歳の若者で構成された白虎(びゃっこ)隊です。
白虎隊の総人数は350人程で、身分の差によって士中白虎隊・寄合白虎隊・足軽白虎隊の3隊に分けられており、それぞれの隊はさらに二中隊に分けられていました。
新政府軍の二本松城攻撃に始まった会津戦争が激烈を極める中、若き白虎隊にも出撃命令が下されます。
ただし、出陣と言っても、彼らはまだまだ若すぎるため、猪苗代湖畔の戸ノ口原方面を守る部隊を陣中見舞いする藩主の松平容保を護衛するという役目でした。
従うのは、士中白虎隊の二番中隊の彼ら・・・。
ところが、道を進むうち、戸ノ口原の部隊から、緊急の援軍要請が入ります(8月22日参照>>)。
どうやら、現地は、一触即発の状態になっているようで、それならば・・・と、とにかく若い彼らが即行、現地へ先に向かう事に・・・。
着いてみると、確かに緊迫状態・・・しかし、ここで、彼らは兵糧を持たずに出発してしまった事に気づき、あわてて、隊長の日向内記(ひなたないき)が、食糧調達のために隊を離れますが、行ったっきりで、なかなか帰ってきません。
やがて始まった戦闘・・・西洋式の最新鋭の装備を持った新政府軍相手に、旧式の軍隊しか持たない会津はたちまち劣勢となってしまいます。
大混乱の中、血気盛んな白虎隊は、焦らされる事に我慢ができず、隊長がいないまま我先に勝手な行動に出てしまい、敵の一斉攻撃のターゲットとなってしまいます。
大混乱がさらに大混乱となって、もはや戦うどころではなくなった彼らは、とにかく二手に分かれて逃走・・・その半分の19名は、山道を這うように、一路、会津・鶴ヶ城へと向かいました。
「鶴ヶ城へ戻れば何とかなる・・・そして、もう一度、出陣して、次は必ず敵を討つ!」
そう、心に言いきかし、険しい山中を行く19名の少年たち・・・やがて洞穴を抜けて、飯盛山までたどりつきました。
飯盛山まで来れば、鶴ヶ城は目の前です。
「助かった・・・」と、ホッとしながら、山頂から眼下に広がる城下を眺めた彼らが見たものは・・・煙に包まれる鶴ヶ城でした。
「すべては終った・・・」
「わが城は落城した」
愕然とする少年たち・・・。
誰からともなく
「主君の後を追おう・・」
という声があがります。
まだ、あどけなさの残る若い彼ら・・・誰も、その行動を止める者はいませんでした。
かくして、彼ら19名・・・ある者は自らの腹を裂いて自刃し、ある者はお互いをその刀で斬り、散っていったのでした。
しかし、以前書かせていただいたように、この時点では、まだ、鶴ヶ城は落城していませんし、主君・容保も無事でした。
城下の民家が燃えた煙が風になびいて、飯盛山から見ると、鶴ヶ城が炎上しているように見えていただけだったのです。
混乱の中の勘違いとは言え、健気で純粋な若き命が散っていったさまは、やはり涙を誘うもので、昔から、お芝居にドラマに歌にと、彼らは引っ張りだこ・・・人気も未だ衰えずって感じですね。
だたし、ドラマの感動のままに、ここで白虎隊が全滅したイメージがありますが、冒頭で書かせていただいたように、白虎隊は全部で300名以上ですから、200名あまりが、その後も生き残った事になります。
また、自刃した19名のうち、まだ息があるうちに発見され、助けられた人も1名いますが、そのお話は次ぎの機会にさせていただきたいと思います。
しかし、結局1ヶ月後には、鶴ヶ城は開城され、会津が降伏(9月22日参照>>)する事には変わりなく、やはり、散りゆく者の悲劇を感じずにはいられません。
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コメント
飯森山からはお城がをなかなか私は見つけるのに苦労しました。見つけたときは嬉しかったです。
空腹と疲れに襲われた彼らのお城という希望の大きさが何となく分かるような気がしました。
投稿: Ikuya | 2011年8月21日 (日) 21時31分
Ikuyaさん、こんばんは~
勘違いと言ってしまえばそれまでですが、若い彼らにとって疲れと空腹は、その判断を誤らせるのに充分だったでしょうね。
残念です。
投稿: 茶々 | 2011年8月21日 (日) 22時56分
こんばんわ!毎晩寝る前に楽しく拝見させてもらってます!
最近自刃白虎隊士の生き残りの飯沼貞吉さんの手記が発見されて本当はお城は落ちていないことは分かってたみたいですね。でも城下は敵軍が包囲してるし疲弊しきった身体でお城に辿り着くのは困難で
敵に捕まって辱しめを受けるのは主君やご先祖に申し訳が立たない。会津を朝敵に陥れた憎き敵軍に武士の本文を明らかにするための自刃であったと。
敵に切り込み玉砕だ!なんとかお城にたどり着き再起をはかるんだ!いや捕虜の辱しめを受けるくらいなら自害すべし!と2時間ほど皆で話し合ったみたいです。
自害した後もすぐに死にきれずもがき苦しみながら畔の雨水?を最後に一口飲もうと水を求めて斜面を下って息絶えていた。という話を昔テレビで聴いたことがあります。(確か飯森山の関係者か)
時代劇とは違う生々しい話が恐ろしくてトラウマになった事があります。
投稿: 来年30 | 2015年9月22日 (火) 02時43分
来年30さん、こんばんは~
>時代劇とは違う生々しい話…
そうですね。
やはり人の死ですから、実際にはドラマのように美しく散る事はありませんが…
考えると、ツライですね。。。
投稿: 茶々 | 2015年9月23日 (水) 01時55分
はじめまして。
私は鶴ヶ城や、飯盛山、御薬園などのボランティアガイドをしています。
白虎隊は優秀な少年達です。お城は燃えてない、まだ落ちていないとわかってました。
その証拠に鉄砲や大砲の音が聞こえ、まだ戦いの最中だと。
しかし今、帰城してもこんな状態では途中敵の手に落ちるばかりだ、それでは皆に申し訳ない、ここは潔く武士の本文として自刃して果てようという結論になったそうです。
最近見つかった飯沼貞吉さんの手記によるものです。
数年前に新しく碑が建てられました。
来年30年さんのおっしゃる通りです。
投稿: Mayumi | 2018年8月30日 (木) 17時25分
Mayumさん、こんにちは~
情報ありがとうございます。
コチラは10年前に書かせていただいたページですので、このような書き方になってしまっていますが、新しい発見や新しい考え方によって歴史は日々進歩していきます。
なので、このブログも、それに順応した新しいページを…と日々考えており、同じテーマを新しい日付で書かせていただいた時には、古いページは削除させていただいているのですが、なかなか追いついていない状況で申し訳なく思います。
最新の情報を手に入れて、自分なりに考察し、考えがまとまれば、新しい記事をupさせていただたくという気持ちは持っておりますので宜しくお願いします。
投稿: 茶々 | 2018年8月30日 (木) 18時25分