白村江の戦い~その敗戦の原因は?
天智称制二年(663年)8月27日、百済の救援要請に応じて海外出兵をした日本が、唐・新羅を相手に大敗を喫した白村江の戦いがありました。
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当時、高句麗(こうくり)・新羅(しらぎ)・百済(くだら)の三国がひしめき合って、緊迫状態にあった朝鮮半島・・・。
そんな中、新羅が唐(中国)の支援を受けて百済を攻撃・・・百済王・義慈(ぎし)を捕らえて、百済を滅亡に追いやります。
そこで、重臣・鬼室福信(きしつふくしん)は、当時、在日中だった事で難を逃れた義慈の息子・余豊璋(よほうしょう)を旗印に掲げ、百済の再興をはかるため、日本に救援を要請します。
百済は、朝鮮半島における唯一の友好国であり、そこが、唐に制圧されれば、大陸からの防衛拠点を失う事にもなる日本は、その要請に答えて海外出兵を行い・・・と、白村江(はくすきのえ)の戦いに至る経緯などは、一昨年の8月27日(一昨年のページを見る>>)にも書かせていただいたのですが・・・
それにしても、この見事な負けっぷりの原因は、いったい何だったのでしょうか?
本日は、その戦いぶりを中心に書かせていただきたいと思いますが、なにぶん古い話でありまして、肝心の『日本書紀』にも、様々な矛盾点がある事は確かで、あくまで諸説ありますが・・・という前置きのもと、お話をさせていただく事にします。
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百済滅亡後も、わずかに死守した任存城において抗戦を続けていた鬼室福信らは、豊璋を護送するかたちで到着した日本軍の第一陣に活気づき、先に唐に奪われて、今は、敵の拠点となっている熊津城や四此城を牽制します。
その後、白江の河口付近の周留城にて豊璋を国王に立て、以後、この周留城を拠点として、百済南部に進攻していた新羅・唐軍との抗戦を繰り返して勢いづいていきます。
しかし、善戦もこれまで・・・ここらあたりから、徐々におかしくなってくるのです。
その発端は、まず拠点を周留城から、少し南にある避城に移動した事に始まります。
移転の理由は、諸兵に疲れが生じてきた事と、なによりも周留周辺が農業に適さなかった事から兵糧の確保ができないと判断したようです。
しかし、軍事面においては周留は要所であり、この移転に福信は反対し、日本からの援軍の将である朴市田来津(えちのたくつ)も・・・
「飢は後なり、亡(ほろび)は先なり」と助言しますが、聞き入れられず、拠点は避城に移転されます。
そして、それ以来、豊璋と福信の意見は、ことごとく対立するようになってしまったのです。
百済の再興を願い、戦い続ける兵士たちにとって、豊璋は国の象徴であり、福信は戦術のリーダー・・・この二人がタッグを組んでこそ、その士気も上がるっちゅーもんです。
しかし、日本からの大軍を目の当たりにした豊璋は、気が大きくなったというか、勝てると思い込んでしまったというか・・・。
やがて、あまりの意見の対立に、豊璋は、「福信が謀反をくわだてているのではないか?」との疑いを抱いてしまうのです。
実際のところ、その福信も、仮病を使って、お見舞いに来た豊璋を暗殺する計画を立てていたとも言われますが、とにかく、謀反が本当であろうがなかろうが、その前に、豊璋は福信を処刑してしまいました。
そう、これが白村江の戦いのターニングポイントです。
実は、この福信は、この地域の気候風土・地形や潮流などを熟知していて、これまでの作戦にも、その知識をフルに活用していたのですが、彼がいなくなった事で、まるで作戦が立てられなくなってしまったのです。
その事は、敵も充分お見通し・・・ここがチャンスだとばかりに、新羅は周留城を一気に攻撃し、唐軍も陸路と海路に分かれて、一斉に進撃を開始します。
*このイラストは進軍ルートをわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません
もちろん、日本も急遽、第2陣を派遣しますが、この段階になっても、まだ、豊璋の立てた作戦は・・・
「地形も潮流も関係あるかい!とにかく、突っ込んで行ったら敵は撤退しよるに決まってるやんけ!」
と、やっぱり、援軍の数に頼った、ずさんな作戦だったとか・・・
確かに、記録によれば、この時の百済・日本連合軍の船の数は400隻、対する唐・新羅連合軍は170隻、それぞれの数は多少オーバーなところがあるかも知れませんが、日本・百済連合軍の数ほうが圧倒的に多かった事は確かでしょう。
はたして、天智称制二年(663年)8月27日、朝鮮半島西側の海上で起こった戦いは、作戦らしい作戦もないまま、我先にと唐軍に突入し、結局は挟み撃ちにされて、あえなく敗退する事になってしまったのです。
この白村江の戦いは、その完膚なきまでの負けっぷりに、大国である唐に挑んだ無謀な戦いのように思われがちですが、実は、そうではなく、百済勢の内部分裂による士気の低下と、戦闘態勢の乱れが引き起こした敗戦と言えるかも知れませんね。
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コメント
内容の濃い立派なブログを読ませて頂きました。ここに出てくる「周留城」ですが、これは「しゅうりゅうじょう」と読むので合っているのでしょうか?実は今歴史書の独日訳をしておりまして、読み方に自信がない為、教えて頂けたら・・・と思うのですが。
もし出来れば、テーマとは外れますが、「第館の奴婢」(ていかんのぬひ)「西諏の蛮族」(せいすうのばんぞく)(諏の字は本当はこざと辺ですが、私のコンピューターでは書けません・・・)の意味も教えて頂ければ、大変有難いです。
お忙しいところ大変恐縮ですがどうぞ宜しくお願い致します!!!
投稿: すう | 2008年10月15日 (水) 23時33分
すうさん、こんばんは~
ご質問の件ですが・・・
「周留城」は日本読みでは「するじょう」というのが正しいようですが、現地ではおそらく違う読み方をされると思いますが・・・。
「第館の奴婢」は、言葉通りだと、その家の奴隷の事だと思いますし、「西陬の蛮族」も、西陬(中国の地名)に住む野蛮な民族という事なのでしょうが、熟語となった時、何か特別な意味があるのかも知れません。
いずれにしても、奴婢は中国の身分制度に属するものですし、西陬も地名なので、古代の中国史におくわしい方に聞かれるのが一番だと思います。
なんせ、ワタクシ、世界史はまったくワカラナイもので・・・お役に立てなくて申し訳ないです。
投稿: 茶々 | 2008年10月16日 (木) 01時24分
この戦いの後に新羅が朝鮮半島を統一するんですね。ただこの戦いで百済が息を吹き返したら、朝鮮半島の歴史が変わったでしょうね。
先日、歴史のセミナーに行くと言っていましたが、大学主催の「市民講座」ですか?
投稿: えびすこ | 2011年8月27日 (土) 17時23分
えびすこさん、こんばんは~
セミナー的な物は、あっちゃこっちゃ行ってます。
今日は、市が主催の「くずし字講座」に行ってました。
投稿: 茶々 | 2011年8月27日 (土) 23時05分
私、昔は「はくすきのえ」と習ったのですが、最近は「はくそんこう」「ペクソンガン」…と習うらしいですね。時代は変わるものですね…。
投稿: クオ・ヴァディス | 2019年6月 5日 (水) 23時14分
クオ・ヴァディスさん、こんばんは~
そうですね。
文献には基本、ふりがながふってないので便宜上、そう読んでる事が多いので、時代とともに変わる場合は多々ありますね~
以前、天智天皇のページ>>のとこで、昔は「てんち」だったけど最近は「てんじ」で…とそんな感じの事を書かせていただきました。
その時々で1番と思われる専門家さんの意見や、その時々の見解の流れで変わっていくのだと思います。
投稿: 茶々 | 2019年6月 6日 (木) 01時18分