加藤清正の熊本城~築城にまつわる怖い話
慶長六年(1601年)8月7日、加藤清正が熊本城の築城に着工しました。
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江戸時代のほとんどを通じて、肥後熊本を統治していたのは細川家・・・にも関わらず、今も熊本県民の皆様にとって、加藤清正さんは特別な人のようです。
『清正公』と書いて「きよまさこう」とは呼ばずに、「せいしょこ(さん)」と親しみを込めて呼ぶのだそうです。
洪水が頻繁に起こっていた川に堤防を築いて肥沃な大地に変え、隈本城と呼ばれていた城を、堂々たる大城郭の熊本城に立替え、現在の熊本という城下町の基礎を築いたのは、やはり清正公・・・大阪人の私が、現在残る大阪城の石垣を築いた家康さんよりも、どうしても太閤さんのほうに親しみを感じてしまうのと同じ感覚でしょうか。
例の「虎退治」の逸話でもわかる通り、清正公は武勇に優れた武将でしたが、築城や治水工事、新田開発にも手腕を発揮した政治家でもありました。
現在の熊本城天守閣は、昭和の時代に再建されたものですが、それは、清正公の築いた当時の熊本城の、瓦の数までを忠実に再現しているのだそうです。
大坂城・名古屋城とともに、日本三名城(諸説あるようですが・・・)に数えられる熊本城・・・。
三名城のうち、熊本城以外に名古屋城も清正公の手によるものなのですから、まさに築城の名人ですね。
そんな清正さん・・・天正十五年(1587年)に起こった肥後国人一揆(7月10日参照>>)の責任をとって自刃した佐々成政(さっさなりまさ)亡き後に、肥後北部・19万5千石を与えられ、その後の関ヶ原の合戦での功績により、肥後52万石の領主となります。
そうなると、その52万石にふさわしい名城を造りたくなるもの・・・で、慶長六年(1601年)8月7日、天下一の名城を目指して、築城に取り掛かったわけです。
しかし、さすがに広大な規模を誇る名城・・・それは、7年間にわたる大工事となりました。
ところで、そんな熊本城の、築城にまつわるちょっと怖い逸話があります。
・・・・・・
広大な敷地では、幾人かのグループに別れ、あちこちで、同時進行の工事が行われていたのですが、その中の、ある工事現場に、ひと際力持ちの男がおり、「2~3人がかりで持ち上げねばならないほどの資材を、ひとりで軽々と持ち上げる」と評判の者がおりました。
しかし、ある時、その男の正体を知っているという者が現れ、その者が言うには・・・
「あれは、木山弾正の息子の横手五郎という男だ」というのです。
木山弾正とは、豊臣秀吉の九州平定後、北部を与えられた清正と、ともに肥後南部の領主となった小西行長に反発した天草五人衆の一人で、その天草合戦の時に、清正との一騎打ちによって命を落としていた武将です。
その息子なのですから・・・
「敵情を探るために人夫となって紛れ込み、仇討ちの機会を狙っているのではないか?」
と、思ってしまうのも、無理はありません。
早速、清正は男を呼び出し・・・
「誰よりも早く、誰よりも深い井戸を掘ったら、褒美をやるぞ」
と言い、男がハリキって、深い深い井戸を掘ったところで、上から石や土を投げ入れて生き埋めにしてしまう・・・という、何とも後味の悪い騙まし討ちで亡き者にしてしまったのです。
その後、しばらくして、基礎工事ができあがったところで、無事の完成を願って祈祷をしてもらう事となり、ある修験者を呼び寄せたところ、祈祷が始まるやいなや、その修験者は・・・
「この地には怨霊の呪いがかかっておる!
ひとつは、騙されて生き埋めにされた男の呪い。
もうひとつは、戦場にて討ち取られたその父の呪い。
親子2代の呪いなれば、この地を清める事はできませぬ」
それを聞いた清正は
「ほな、お前が人柱になれ」
と、一刀両断でその修験者を斬り捨てたのです。
死のまぎわに修験者は
「私を人柱にしても呪いは無くなりません・・・きっと殿様の家は滅びるでしょう」
と言い残し、命果てました。
・・・と、これは、あくまでも伝説です。
書いてる私自身、武勇の誉れ高い清正さんのイメージからは、考えられないようなダーティな逸話で、にわかには信じ難い・・・
とても、本当の話とは思えませんが、確かに清正さんは、この10年後に突然亡くなり(6月24日参照>>)、その嫡男である加藤忠広も、わけのわからない理由で配流となり(12月6日参照>>)、戦国武将としての加藤家は、わずか2代で、事実上、滅亡する事となります。
おそらくは、この加藤家のあまりに早い没落を目の当たりにした人々による「何かの祟りなんとちゃうんか?」という疑惑が、このような恐ろしい伝説を生んだのではないか?と考えますが・・・
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コメント
茶々さん
はじめまして、battenと申します。
毎日楽しみに拝読させていただいてます。
「せいしょこ」さんのことが掲載されたのでコメントします。
確かに私の地元熊本県民にとっては、「せいしょこ」さんは特別の存在です。「熊本城」建築しかり、暴れ川だった「白川」はじめ、、熊本各地で「せいしょこ」さんの治水工事、新田開発の痕が残ってますから...
また、7月24日の「せいしょこ」さん命日の前日には「頓写会(とんしゃえ)」や、9月の中旬には「ボシタ祭り」(=秋の藤崎八幡宮大礼祭)の祭りが今でもあって、「加藤清正」を偲ぶお祭りが残っていますからね。
私も歴史を学ぶまでは、熊本のお殿様は「せいしょこ」さんと思ってましたから、今でも熊本市民は「加藤家」を熊本のお殿様と思っているかもしれません。
それだけ、「細川家」が「加藤家」を敬い、名を「せいしょこ」さんに与え、難しい国人国の肥後を治めて実をとったんでしょうね!
投稿: batten | 2008年8月 8日 (金) 00時10分
battenさん、はじめまして、コメントありがとうございます。
大阪や京都では、徳川家によって、豊国神社を潰して東照宮が建てられました。
特に大阪の川崎東照宮は、太閤さん色を消すために、かなり豪華に力を入れて建てられたようですが、その点では、先の主君である清正公の影をうまく利用して領民の心を掴んだ細川のお殿様のほうが、統治の仕方が上手だったって事なんでしょうね。
投稿: 茶々 | 2008年8月 8日 (金) 00時32分
来年でちょうど加藤清正の没後400年ですね。今年、「清正井」が注目を集めています。熊本城は昨日の朝日新聞別版での、「お城人気ランキング」でも上位に入りました。
盛り上がっている来年の大河ドラマ(滋賀県では三姉妹のグッズが出ています)ですが、近日中には主要配役・第2組が決まりそうです。今回は人選に熟慮を重ねていますね。
「東軍関係者」は昨年は影が薄かったので。
投稿: えびすこ | 2010年10月10日 (日) 08時37分
えびすこさん、こんにちは~
熊本城は、改築以来、大変な人気だそうですね。
「一口城主」っていうのも良いアイデアだと思います。
投稿: 茶々 | 2010年10月10日 (日) 13時10分
茶々さん、こんにちは。
最近また熊本に行きたい要求が強くなりました。
熊本城に行きたいです。でも熊本は加藤家よりも細川家の方が治世が遥かに長く。今の町並みも細川家によってできました。そう言う点では細川も凄いと思います。
熊本は負けん気が強いですが、亡くなった巨人の監督だった川上監督もそうですね。本当に加藤家もそうですが、細川も菊池もよく治めたなと感心します。
投稿: non | 2016年4月 9日 (土) 13時58分
nonさん、こんにちは~
佐々成政は手を焼きましたからね。
治めるのも一筋縄ではいかなかったでしょうね。
投稿: 茶々 | 2016年4月 9日 (土) 17時09分
茶々さん、おはようございます。
熊本の男性と私は似ているところがあります。聞かん気が強いです。
菊池、阿蘇などは珍しい南朝の武将ですから武士道を実行した最初の武将でしょう。
佐々成政も困りましたね。でも佐々家は熊本に住んでいますね。佐々敦之さんもその一人ですね。
加藤、小西、細川はそう言うのを上手く収めたとは名君ですね。
投稿: non | 2016年4月11日 (月) 09時37分
nonさん、こんばんは~
民衆の心をつかむのは、なかなか難しいですからね。
投稿: 茶々 | 2016年4月12日 (火) 01時11分