長岡城落城とともに散った河井継之助~戦争回避ならず
慶応四年(明治元年・1868年)8月16日、越後・長岡藩の家老・河井継之助がこの世を去りました。
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慶応四年(明治元年・1868年)・・・鳥羽伏見の戦い(1月2日参照>>)に始まった戊辰戦争・・・。
江戸城が無血開城(4月11日参照>>)された後も、未だ戦い続けていたのは、奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)を結成して官軍に抵抗していた会津をはじめとする東北の諸藩です。
いえ、むしろ、戊辰戦争は、官軍が江戸城を落すまでよりも、その後の東北一帯のほうが激戦だったと言えるでしょう。
しかし、本当は、この一連の激戦・・・回避できたかも知れない戦いでした。
その鍵を握っていた人こそ、本日の主役・長岡藩の家老・河井継之助(かわいつぎのすけ)です。
彼は、藩政改革を実行して、借金だらけだった長岡藩を建て直し、この幕末の危機を切り抜けるためにと、最新鋭の軍備を整え、戊辰戦争が始まってからでも、官軍or幕府のどちらにつく事もなく、中立の立場をとっていました。
やがて、まもなく会津への攻撃が開始されようという頃、継之助は、小千谷(おぢや)の慈眼寺にて、官軍の軍監・岩村精一郎と交渉を行ったのです。
もちろん、戦争を回避するための交渉です。
「もう少し時間をくれたら、武装中立の立場から、会津などの諸藩を説得し、戦闘を回避してみせる」と・・・
しかし、精一郎は、この提案を一蹴します。
精一郎は、まだ血気盛んな23歳の若者で、彼の頭の中には「戦争を回避する」などという考えはなかったのです。
しかも、官軍には、この河井継之助という人物が才知に優れた智将であるという事が伝わっておらず、精一郎は、はなから彼の事を「夢見物語のアホ家老」と決め付けて、交渉をする気など、まるで無かったようなのです。
かくして、中立の立場をとる事が許されなくなった長岡藩は、奥羽越列藩同盟に加わり、官軍と戦う事になるのです(5月13日参照>>)。
そうなって、真っ先に官軍からの攻撃を受けたのは、長岡城でした。
確かに、長岡藩は最新鋭の軍備を整えてはいましたが、それらを自由に使いこなすには未だ訓練不足・・・しかも、数のうえでは圧倒的に官軍のほうが上でした。
2ヶ月の死闘の末の5月19日、長岡城は落城してしまいます。
それでも、一旦、官軍に奪われた長岡城を奪回し、持久戦に持ち込んで冬を迎えれば、雪国に慣れていない官軍を撃破する事も可能と考えた継之助は、7月25日、長岡城を奪回すべく攻撃を仕掛け、見事、奪回に成功します。
しかし、この時、流れ弾を左ヒザに受けて重傷を負ってしまったのです。
しかも、一旦奪回した長岡城も、7月29日に再び官軍に奪われてしまいました(7月29日参照>>)。
その後、会津若松に護送される中、山道で揺られる事でキズが悪化・・・8月15日、死期を悟った継之助は、自らの棺おけを所望します。
慶応四年(明治元年・1868年)8月16日朝、できあがった棺おけと納骨箱を確認して、満足そうにする継之助・・・午後、そのまま昏睡状態となり、午後8時、帰らぬ人となりました。
その後も、しばらく抵抗を続けていた長岡藩でしたが、9月に入ってついに休戦・・・10月6日、長岡藩主牧野忠訓が正式に降伏・謝罪し、長岡藩の戊辰戦争は終わりを告げました。
生前から約束ができていたのか、その責任は継之助と、やはり家老だった山本帯刀(たてわき・義路)(9月8日参照>>)の二人が負う事になり、長岡藩の他の人物が責任を問われる事は、ほとんど無かったそうです。
そして、官軍は次ぎのターゲット=会津へと駒を進める事となります(9月22日参照>>)。
享年42・・・戦争を止めるためには、自らが強くなって中立の立場で説得する事・・・最新鋭のガトリング砲は、そのためのカードだったのかも知れません。
かくして、望まぬ戦に臨んだ勇士は、その散りぎわも見事でした。
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