小谷落城の生き残り~海北友松の熱い思い
天正元年(1573年)8月28日、織田信長による攻撃で、城主・浅井長政が自刃し、小谷城が落城しました。
*長政の自刃は、8月29日とも9月1日とも言われますが、とりあえず本日の話題として書かせていただきます
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天正元年(1573年)8月20日、越前の朝倉義景を自刃(8月20日参照>>)に追い込んだ織田信長は、8月27日、孤立した小谷城への攻撃に主力を投入します。
羽柴(豊臣)秀吉の怒涛の攻撃で城内が分断され、その日のうちに父・浅井久政が自刃、そして、翌8月28日、城主・浅井長政の自刃によって小谷城は落城・・・浅井氏は滅亡しました(8月27日参照>>)。
この小谷城・落城の日、城主・浅井長政と運命をともにした海北綱親(かいほうつなちか)・・・彼は、「家中第一の剛の者」と称された浅井家の重臣で、近江源氏の流れを汲む武門の家柄の人物でした。
赤尾清綱、雨森清貞とともに浅井(海赤雨)三将と恐れられた綱親も、この日の落城にとともに主君に殉じ、長男もろとも命果てました。
しかし、綱親には、他にもまだ、紹益という息子がいました。
幼い頃から京都・東福寺に預けられていたため、落城の難を逃れた紹益は、父や兄の死を知ると、すぐに還俗(仏教の道に入っていた人が、一般人に戻る事)して、海北家再興のために奔走するのです。
弓・馬・剣と武芸に励むかたわら、狩野永徳(永徳の祖父・元信とも)に教えを乞い、絵画の修行もし、里村紹巴(じょうは)には連歌を習い、茶の湯にも親しみます。
ただし、この一連の修行・・・あくまで、前者の武芸のほうが主流で、後者の芸術面の修行は、彼にとっては、名のある武将と交流を持つための手段であり、自分自身の価値を高めるためのステップだったのです。
力のある武将と親しくなって、自分の事を認めてもらう事ができたら、お家再興の道も、より早くなるかも知れませんからね。
おかげで、明智光秀の家老だった斉藤利三や、天台宗の僧侶・真如堂東陽坊長盛(とうようぼうちょうせい)らとも、かなり親しくなっていたようです。
利三が、かの山崎の合戦で敗れた後に処刑された(6月11日参照>>)時は、東陽坊とともに、その遺体を奪い、真如堂へ埋葬するなんて事もしています(6月17日参照>>)。
しかし、世の中、思い通りにはいかないものです。
文禄二年(1593年)、紹益60歳の時、施薬院全宗(やくいんぜんそう・秀吉の側近の医者)の開いた茶会で、今や、天下人となった豊臣秀吉に、その絵画の才能のほうを見いだされたのです。
その時から彼は、絵画の道に生きる事になりました。
妙心寺の「花卉図」や、建仁寺の「雲龍図」「竹林七賢図」などの傑作で知られる、桃山時代~江戸時代初期を代表する絵師・海北友松(かいほうゆうしょう)が、その人です。
そんな彼は、一般的には、秀吉に画才を認められてからは、画業に専念して武士への道を諦めたと言われていますが、どうやら、そうではなさそうです。
・・・というのも、友松の孫にあたる海北友竹の「海北友松夫婦像」という作品があるのですが、その賛(絵に題することば)には、友松自身の言葉として・・・
「近江源氏の流れを汲む武門に生まれたにも関わらず、こともあろうに芸家に身を落としてしもた・・・もしも、まだ、この先にチャンスがあるなら、何とかして海北の武門復興したい」
てな事が記されているのです。
つまり、彼は、絵師として成功した後でも、まだ、お家の復興を諦めていなかったという事です。
彼の作品は、簡素な水墨画からも、煌びやかな金箔画からも・・・いずれも力強く、息を呑むほどの鋭さ、野心、意気込みを感じとる事ができます。
それは、きっと彼が、元和元年(1615年)の6月2日に、83歳で亡くなるその日まで、武門・海北家への思いを捨てなかった・・・その気迫が、作品の中に込められているからこそ、独特の美しさが感じられるのでしょう。
彼のお墓は、その遺言に従って、真如堂の斉藤利三のお墓の隣にあるそうです。
お家再興を願って寺を飛び出したものの、武士にはなりきれなかった友松の、最初で最後の武功・・・それが、親友・利三の遺体の確保にあったのかも知れません。
利三の娘で、後に大奥で実権を握った春日局(かすがのつぼね)が、友松の妻・妙貞と、息子・忠左衛門を優遇するのも、そこに、武門としての熱い思いを感じたから・・・というところではないでしょうか。
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コメント
家の再興が第一の願いだったのでしょうが、狩野永徳(元信?)に教えを乞い、里村紹巴には連歌を習い、斎藤利三の遺体を奪回し…って、もう見事な人生です。
その上素晴らしい作品を残していただいたのですから、後世の人間にとっては、感謝しかありません。
投稿: とらぬ狸 | 2015年8月28日 (金) 20時56分
とらぬ狸さん、こんばんは~
生き残った者にとっては、再興は悲願だったかもしれませんが、絵師としての人生も魅力的ですよね。
投稿: 茶々 | 2015年8月29日 (土) 01時20分
海北友松のことを初めて知ったのは、今から27年前に放送された、NHK大河ドラマ「春日局」でした。たしか、演歌歌手の吉幾三さんが演じていたのを、はっきりと覚えています。明智光秀の家臣である斎藤利三のことや、春日局(お福ともいう)が利三の娘であることも、それで知りました。友松が、山崎の戦いが終了した後に、利三の遺体を、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の軍から奪回したというのは、友松にとっての、勇気ある行動と言っても、過言ではありませんね。よほど、利三のことが不憫に思えたのではないでしょうか。
投稿: トト | 2016年3月 1日 (火) 10時40分
トトさん、こんにちは~
残念ながら、私は「春日局」は見て無いんですが、友松にも様々な思いがあった事でしょうね。
投稿: 茶々 | 2016年3月 1日 (火) 17時12分