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2008年8月31日 (日)

龍馬に影響を与えた姉・坂本乙女

 

明治十二年(1879年)8月31日、坂本龍馬の姉・坂本乙女が、47歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・

ご存知、坂本龍馬には、歳の離れた兄と、その間に三人の姉がいますが、ドラマなどで描かれる時に登場するのは、必ずと言っていいほど、この坂本乙女(おとめ)さん・・・。

乙女と龍馬は3歳違いですが、龍馬が12歳の時に母親が亡くなったため、多感な思春期を、母親代わりに世話をしたのが、すぐ上の姉・乙女で、「龍馬の精神的成長に多大な影響を与えたのではないか?」とされ、兄弟の中では、ひと際、注目されている人なのです。

龍馬の少年時代は、たいへんな泣き虫で、塾などへ行っても、大抵泣かされて帰ってきていたそうですが、それは、小さい頃は病弱だったため、母親が腫れ物にさわるように育て、その母親が亡くなってからは、弟を可愛がる三人の姉・・・となると、どんな雰囲気の少年だったかは、だいたい想像がつきますよね。

ところが、そんな龍馬の性格を見かねて、立ち上がったのが乙女です。

「小さい頃はカワイイで済まされるが、思春期になってコレでは先が思いやられる」とばかりに、その教育方針を一転!・・・龍馬の性格改造に乗り出します。

彼女は、身長五百八寸(176cm)、体重三十貫(130kg)はあったいう当時としてはかなりの大女・・・「坂本の仁王さま」というニックネームがついていたと言います。

そんな彼女が、その巨漢をもろともせず、剣術をこなし、強弓を引き、泳ぎも上手で、馬術もたしなむ(馬が・・・)というから大したモンです。

しかも、和歌や三味線、謡曲などの芸事も一通りこなしていたというのですから、その性格も想像できます。

男まさりで、負けず嫌い、こうだと思ったら最後まで信念をつらぬく・・・そんな彼女が、本腰を入れて、弟の教育に乗り出したのですから、その厳しさもハンパじゃありません。

行儀作法に始まり、読み書き、剣術・・・

おかげで、龍馬が近くの剣術道場に通う頃には、すっかり腕も上達し、やがて、その剣術の修行のため、故郷を離れ、江戸へと向かう事になります。

その江戸で、北辰一刀流の小千葉道場に入門するわけですが、時代は、まさに幕末・・・佐久間象山(7月11日参照>>)に出会い、そして、あのペリーの黒船来航(6月3日参照>>)にも影響され、龍馬の中では、何かが目覚め始めるのです。

8年間の剣術修行を終え、北辰一刀流免許皆伝(免許皆伝ではないという説もあります)となった龍馬は、故郷・土佐(高知県)へ戻ってきますが、その頃には、もうすっかり志士となっていました。

その後、決起したばかりの土佐勤王党に参加し、さらに脱藩・・・。

一方の乙女は、龍馬が江戸にいる間に、近所のお医者さん・岡上樹庵(おかうえじゅあん)と結婚し、男の子を設けていましたが、龍馬が土佐に戻ったこの頃には、すでに離婚していたようです。

・・・というのも、龍馬は、近況報告として、乙女にしょっちゅう手紙を出しているのですが、この脱藩の頃の手紙からは、ダンナさんの事を、いっさい書かなくなってしまっているので、おそらく、もう、交流が無かったんでしょうね。

離婚の理由は、夫の暴力、夫の浮気、姑との渡鬼・・・などなど、結局のところはよくわかっていません。

そんな姉・乙女の事を、龍馬は・・・
「親に死なれてからは、乙女姉さんに育てられたようなモンやきに・・・親の恩よりも、姉さんの恩のほうが大きいぜよ」
と、奥さんのお龍によく話していたそうです。

その話といい、上記の大量の手紙のやりとりといい、やっぱり龍馬は、兄弟の中では、乙女と一番仲が良かったようですね。

そんな、仲のよかった弟を、彼女は、先に見送らなければなりませんでした。

慶応三年(1867年)11月15日・・・彼女は暗殺という形で、かわいい弟を失いました(11月15日参照>>)

思えば、ひ弱な弟に、「強くなれ!」と叱咤激励した彼女・・・。

強くなるために江戸に向かい、多感な青春時代をそこで過ごし、大いなる志を持ってしまったために、その命を縮める事になってしまった・・・ひょっとして、ひ弱な弟がひ弱なままだったら、土佐の故郷で天寿をまっとうできていたのかも知れません。

果たして、最愛の弟を失った彼女の心の内は、どのようなものだったのでしょうね。

自分の思いが、結果的に、弟の命を縮めてしまった事に対する後悔の念なのでしょうか?

はたまた、維新の礎となって華々しく散った弟へ「よくやった」とのねぎらいの思いなのでしょうか?

私は、おそらく、後者だと・・・いや、そうであってほしいと願っています。

龍馬の功績は、その生前は、ほとんど評価される事がありませんでした。

いえ、現在でさえ、彼がやったとされる事が、本当に彼がやった事なのか?それとも、小説による空想の産物なのか?の論議が分かれるところです。

Ryoumakucc ♪世の人は
 われを何とも
 言はゞいへ
 わがなすことは
 我のみぞしる

これは、龍馬が詠んだとされる歌・・・

いつも、どんな時も、人がなんと言おうと、乙女は龍馬の一番の理解者だったと言います。

どこで、何をしているのか・・・細かな事はわからなくても、我が弟の成す事を、彼女は、ずっと信じていたに違いありません。

「他人が何と言おうと、姉のみぞ知る」と・・・

そんな彼女は、龍馬の死から13年の後の明治十二年(1879年)8月31日壊血病(かいけつびょう)で47歳の生涯を閉じたのです。

信念を貫く、豪快で強気な姉は、あの世で、また、「維新を見ぬ前に死んでしもたぜよ」と嘆く、泣き虫の弟を、叱咤激励しているのかも知れません。
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コメント

今週発売の女性セブンで、「歴代龍馬一覧」がグラビアページで出ていました。
茶々さんの記憶に残る人は誰の龍馬ですか?

投稿: えびすこ | 2009年12月 5日 (土) 16時41分

えびすこさん、こんばんは~

一番記憶に残ってるのは・・・

ダウンタウンの浜ちゃんでしょうかww
あそこまでいくと歴史ドラマではないぶん、楽しめます。

投稿: 茶々 | 2009年12月 5日 (土) 21時08分

日本テレビ系の「竜馬におまかせ」ですね。
確か、あの「パロディ時代劇」を最後に同局系では連続時代劇がないんですよね。

投稿: えびすこ | 2009年12月 6日 (日) 09時36分

えびすこさん、よくご存知ですね。

あの頃の反町は、ホンマ、男前でした~

投稿: 茶々 | 2009年12月 6日 (日) 22時14分

坂本乙女という女性は、土佐が生んだ女傑ですね。会津藩出身の山本八重(後の新島八重)やNHK連続テレビ小説「あさが来た」の主人公のモデルとなった、広岡浅子という女性実業家が、女傑と呼ぶに相応しいですね。あと、女傑と言えないかもしれませんが、天璋院篤姫や楫取美和子(吉田松陰の妹)も、激動の時代を生きた女性だと思います。女性だからといって、甘く見てはいけませんし、女性ならではの凄さがあるのではないかと思ってます。

投稿: トト | 2015年10月19日 (月) 18時44分

トトさん、こんばんは~

>女性ならではの凄さ

ですね…
一旦腹くくると女性の方がスゴかったりします(*^-^)

投稿: 茶々 | 2015年10月20日 (火) 03時15分

改めて気がついたのですが、坂本乙女は、若くして病死したのですね。死因は何だったのかは全く分かりませんが、もしかしたら、気の強い性格に反して、病弱だったのかもしれませんね。坂本龍馬の死後の未来を見届けたのでしょうが、もっと先の未来を見ることができなかったのが、乙女の不幸だったのではないかと思います。

投稿: トト | 2015年11月23日 (月) 18時38分

トトさん、こんばんは~

幕末の頃は、若くして亡くなられる方が多いですね。
激動の時代だけに、維新が成った後の世の感想なんかも知りたいところでありますが、残念ですね。

投稿: 茶々 | 2015年11月25日 (水) 01時45分

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