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2008年9月 1日 (月)

新撰組・松原忠司~命を賭けた2ヶ月の恋

 

慶応元年(1865年)9月1日、新撰組・四番隊組長で柔術指南の松原忠司がこの世を去りました。

・・・・・・・・・・

文久三年(1863年)3月、清河八郎が第14代将軍・徳川家茂(いえもち)の上洛にともなう護衛として募集した浪士組・・・。

しかし、京都に着いたその日に、この募集が将軍のためではなく、尊皇攘夷(そんのうじょうい・天皇を尊び外国を追いはらう)のための募集だった事を、清河が発表した事で、浪士組は空中分解・・・近藤勇(いさみ)芹沢鴨(せいざわかも)らの、わずか17名を残し、彼ら以外の浪士たちは、清河に従い、江戸へと戻りました(2月23日参照>>)

京都に残った近藤らは、前年の暮れに京都守護職に就任し、ちょうど京都の治安維持に頭を悩ませていた会津藩主・松平容保(かたもり)の配下となり、壬生浪士組(みぶろうしぐみ・後の新撰組)と称して、京都の治安を守る事となります。

17名では、こころもとないので、早速、大坂・京都で隊士を募集し、7月頃には約50名ほどの団体となるのですが、その時の隊士募集に応募したのが、本日の主役・松原忠司(ちゅうじ)でした。

当時の彼は、すでに大坂で柔術の道場を構えるツワモノ・・・そんな彼の活躍の場は、すぐにやって来ます。

それは、八月十八日の政変(8月18日参照>>)と呼ばれるクーデター・・・この時、坊主頭に白ハチマキといういでたちで、大長刀(おおなぎなた)を持って登場した彼には、その体格の良さも相まって、「今弁慶」なるニックネームがつき、近藤ら、幹部からの信頼も厚く、この頃には、七番隊長に抜擢されていました。

その政変での活躍が認められて、壬生浪士組は、新撰組と名前を改め、やがて絶頂期とも言える文治元年(1864年)6月5日・・・。

新撰組を一躍有名にした、この日の池田屋騒動(6月5日参照>>)にも、忠司は参加して、まさに弁慶のような大活躍・・・多くの褒美を手にしています。

そんな彼は、その巨漢から想像できないようなやさしさを持ち、屯所周辺の壬生の住人からも、新撰組一番の親切者と、とても評判が良く、慶応元年(1865年)の4月には、新撰組四番隊長柔術指南役までも任されるようになります。

しかし、そんなある日の事・・・それは、ちょうど梅雨時のムシムシした夜でした。

祇園で、しこたまお酒を呑んだ忠司は、夜風に吹かれながらの帰り道・・・ちょうど四条大橋に差し掛かったところで、通りすがりの見知らぬ浪人者と、ちょっとした事で口論になってしまいます。

いつもは穏やかな忠司なのですが、酒の回り具合もちょうどピーク・・・つい、カッとなって刀に手をかけ、相手を斬り殺してしまったのです。

激しい立ち回りの後に訪れた静寂・・・シ~ンと静まり返った夜の闇の中で、ふと我に返った忠司・・・

「エライ事をしてしもた・・・」
自分の愚かさを、しきりに反省しますが、死んだ男は、もう、生き返りはしません。

自らのしでかした過ちの責任を取ろうと、相手のふところに手を入れて、「どこの誰か、身元のわかる品はないものか?」と探ります。

男が、天神横丁の住人であると知った忠司は、残された家族に届けるべく、その遺体を背負い、家族の待つ家へと向かいます。

やがて、たどりついた、とても裕福とは思えない家の前に立って、決意を固める忠司・・・
死んだ男には、美しい妻と、病気の息子がいました。

扉の前で、あれほどしっかりと決意をしたはずなのに・・・
その心が揺らぎます。

正直で、一本気で・・・、
ウソをついてごまかす事などは最低の行為だと、自分自身が、いつも批判しているはずなのに・・・

嘆き悲しむ妻を目の前にして、忠司には本当の事がどうしても言えません。

「鴨川を通りがかったら、河原でこの人が数人のサムライと斬り合うてたんや。多勢に無勢やさかい、加勢したろと思て、駆けつけていったんやけど、間に合えへんかった・・・助けられへんで申し訳ない・・・」

「おおきに・・・ここまで連れてきてくれはって、ありがとうございました」

妻は、忠司の言葉を信じて納得し、その夜は、それで終わりました。

しかし、忠司は、それ以来、その親子の事が気になってしかたがありません。

「夫が生きていた時でさえ、見るからに貧しい暮らし・・・病気の子供を抱えて、この先どうしていくのだろう」と・・・。

数日後、彼は、ありったけのお金を持って女のもとに行き、そのお金を手渡します。

貧しい親子への哀れみと、そんな親子の夫であり、父である男の命を奪ってしまった罪悪感・・・

その後も、心配になって、何度も何度も、お金を持って家に通ううち、いつしか忠司は、哀れみでもない、罪悪感でもない感情が、そこにある事に気づきます。

それは、女のほうも同じ・・・

やがて、子供が病気で死んでしまうと、その関係は、男と女の関係へと変わるのです。

こうして、毎日のように通っていると、当然の事ながら、新撰組に二人の関係がバレてしまいます。

この事を知った副長・土方歳三(ひじかたとしぞう)は、「殺した男の妻と関係を持つなど、とんでもない!」と激怒します。

100%自分に非がある事をわかっている忠司は、「もはやどうしようもない」と、ばかりに切腹を図るのですが、寸前のところで、篠原泰之進(たいのしん)に止められて未遂に終ものの、腹部に大きな傷を負ってしまいます。

この一件で、忠司は平隊士に格下げされ、真夏の暑い最中、腹部の傷も癒える事なく、空しく時が過ぎていきます。

いつしか、忠司は、隊の稽古にも出なくなり、人と話す事もしなくなり、まるで、無表情で、ただ、時を過ごすようになります。

そして・・・
ある日、こつ然と姿を消すのです。

2~3日たって、忠司の出奔を知った土方は、法度に違反する行為として罰するため、即座に篠原を女の家へと向かわせます。

慌てて駆けつけた篠原が見たものは・・・
おびただしい血の海の中、寄りそうように横たわる二人の遺体でした。

Tyuuzikouenzicc 実は、もう耐え切れなくなって、すべての事を話して、自分は一人で切腹して果てようと、彼女のもとへとやって来た忠司・・・。

しかし、もはや、亡き夫より忠司の事が忘れられない女は、すべてを聞いても、なお、「死なんといて」とすがりつきます。

「あんたが死んだら、ウチは生きていかれへん」と、・・・

そして二人は、ともに死ぬ事を選んだのです。

慶応元年(1865年)9月1日・・・殺した男の妻と心中をした松原忠司・・・

事の発端となったあの殺人から、
わずか2ヶ月の・・・
しかし、一生分の・・・
命を賭けた恋でした。

・・・・・

・・・と、まぁ、本日は、一番激しく、ドラマチックな説を書かせていただきましたが、実のところ、この忠司の死には、様々な説があります。

  • 新撰組の記録では病死。
  • まったく別の失態で切腹させられた。
  • 女との恋はあったものの、一度目の切腹の傷が悪化して亡くなったので心中ではない。
  • すべてを告白した時に、女が「夫の仇!」とばかりに忠司を殺したところに、隊士が駆けつけ、仲間を殺したとして、女を成敗した(大河ドラマ「新撰組!」では、これに、亡き夫が長州藩士というオマケがついていたと思いますが・・・)

個人的には、やはり心中がドラマチックなような気がします。

事実は、まったく、別のところにあるのかも知れませんが、四番隊の組長に抜擢されてから、わずか4ヶ月の転落人生には、やはり、何かがあるのでは?と感じてしまいます。
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コメント

ども~(^^)
お久でございます。いつも楽しく拝見しております。
私も松原忠司をちょこっと扱いましたので、こちらの記事をうちのブログにトラバさせてもらってもよろしいでしょうか?
きっと事後承諾です。すみません(^^;)

投稿: 味のり | 2008年9月 4日 (木) 23時28分

味のりさん、トラバありがとうございます。

大河の時の忠司も、なかなか良かったですね。

やっぱ、ドラマはドラマチックなほうが絵になります。

投稿: 茶々 | 2008年9月 5日 (金) 01時32分

茶々さん、すみません!
自分とこにうまくトラバできない~~(汗)
なんかこちらに貼り付けてしまってごめんなさい・・・(;;)
あうー機械は苦手~~~(。><。)
まことすみません~~(大汗)

投稿: 味のり | 2008年9月 6日 (土) 23時49分

味のりさん、私も・・・何かしょっちゅうトラバがうまくいかないので、最近は、ほとんどトラバをしなくなりました。

ココログへのトラバなんて一度も成功した事ありませんww

ホント、ワケわからんです。

投稿: 茶々 | 2008年9月 7日 (日) 01時35分

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» 行方新選組の日 [薩摩佐幕派]
こんなのがあったんですねー ⇒ 行方新選組の日 芹沢さんへのラブレターも募集するようです。 私は・・・・(^^;) ベタに試衛館が好きなんでちょっとムリかもwww さてこないだは松原忠司がなくなった日でした(9月1日) とてもドラマティックな事件なのでよ...... [続きを読む]

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