ラッキーサプライズ?~長宗我部元親の阿波平定
天正十年(1582年)9月21日、長宗我部元親が十河存保の勝瑞城を落とし、阿波を平定しました。
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天正三年(1575年)7月の四万十川の戦い(7月16日参照>>)に勝利し、土佐(高知県)を統一してルンルン気分の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)は、その3ヶ月前の5月に長篠の合戦(5月21日参照>>)で武田勝頼に勝利して、やはりルンルン気分の織田信長に一声かけていました・・・なんせ、時の一番の権力者ですから、一応気を使っとかないとね。
「この勢いのまま四国を統一しちゃっていいかな?」by元親
「いいとも~(*゚▽゚)ノ」by信長
上機嫌の信長から、四国統一の許可を得た元親は、早速、阿波(徳島)へ進攻を開始、同時に讃岐(香川県)へも出兵して、徐々にその勢力範囲を広げていったのです。
ところが、途中で気が変わった信長さん、
「やっぱ、讃岐と阿波の北半分は三好康長君にあげる~。
長宗我部君は土佐と阿波の南部でガマンしといてよ」
と、言い出し、その先鋒として、康長を阿波北部の勝瑞城(しょうずいじょう)へと送り込みます。
この康長は、もともと阿波の岩倉城主だった人物で、現在は信長の配下となり、河内(大阪府)に領地を与えてもらっている人・・・つまり、信長は完全に四国を自分の配下としようと考えを変えたのです。
もちろん「ハイそうですか」と、納得するわけにはいかない元親は、徹底抗戦する覚悟・・・信長は信長で、三男の神戸信孝(かんべのぶたか)に重臣・丹羽長秀(にわながひで)をつけて、四国に送り込む準備を始めさせます。
これが、天正十年(1582年)の事・・・しかし、今まさに信孝が出陣しようとした直前、ご存知、本能寺の変(6月2日参照>>)が勃発したのです。
信長の異変を知った信孝ら四国攻め組は四国どころではなくなり、勝瑞城にいた康長も、慌てて河内へと向かいました。
留守になった勝瑞城を守るのは、康長の兄の孫に当たる十河存保(そごうまさやす)。
一方、織田家の異変は、ほどなく長宗我部の知るところとなりますが、血気にはやって、すぐに勝瑞城を攻め落とそうと海部城(かいふじょう)に入った長男・信親(のぶちか)をなだめて、岡豊城(おこうじょう)にて、じっくりと作戦を練る元親・・・。
もともと、信長との直接対決を覚悟していた元親にとっては、「織田家の後ろ盾を失った三好勢など、敵ではない!」てな感じだったのかも知れません。
じっくりと、軍儀を重ねた元親らは、8月27日に海岸沿いと吉野川沿いの二手に分かれて出陣・・・吉野川の南岸にて合流した2万3千の大軍の指揮を任されたのは、元親の弟・香宗我部親泰(こうそかべちかやす)・・・。
一方、勝瑞城を出て、勝興寺に本陣を置いた存保率いる三好軍は約6千。
翌・8月28日、中富川を挟んで決戦は開始されます。
まずは、先に川に乗り入れた三好軍に対して、あらかじめ構築してあった堰(せき)を破り、上流からの水を一気に流してダメージを与え、ころあいを見計らって、川に乗り入れる長宗我部軍・・・。
壮絶な戦いの中、やがて、一人、また一人と三好軍の有力武将が討ち取られ、壊滅状態になった中、存保は、勝瑞城へと逃げ帰り、その日のうちに中富川の戦いは終結・・・その後は勝瑞城での籠城戦となります。
さらに、本格的な籠城戦の前に、周辺にある一宮城・牛岐城(うしきじょう)のなどの城も落した後、勝瑞城を取り囲む長宗我部軍でしたが、しばらくの間、豪雨が続き、さすがの元親も攻めあぐねます。
やがて、約1ヶ月ほど経った天正十年(1582年)9月21日、ついに勝瑞城は落城・・・存保は、讃岐の虎丸城(とらまるじょう)へと逃れ、ここに、長宗我部元親の阿波平定が成されたのです。
(【元親側室?小少将の数奇な運命by勝瑞城 】もどうぞ)
多くの戦国大名に影響を与えた信長さんの死ですが、元親にとっては、この上なくラッキーな出来事となった事は確かです。
信長の大軍が相手なら、四国統一はちょっと難しかったかも知れませんからね。
もちろん、今回は、ラッキーなサプライズにはやる事なく、じっくりと見据えて勝瑞城への攻撃を仕掛けた元親の好判断の勝利でもありますが・・・。
さてさて、次に狙うは存保が逃れた讃岐・・・そのお話=引田表の戦いは4月21日のページでどうぞ>>
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