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2008年9月14日 (日)

関ヶ原の前哨戦・杭瀬川の戦い~石田三成の決断

 

慶長五年(1600年)9月14日、関ヶ原の合戦の前哨戦・杭瀬川の戦いが行われるとともに、徳川家康は岡山に布陣し、石田三成は大垣城を出ました

・・・・・・・・・・・

慶長五年(1600年)9月14日、朝早くに岐阜城を出た徳川家康は、正午過ぎに、赤坂城から美濃岡山(勝山)に到着、ここを東軍の本営として陣を敷きました。

早速、開かれた軍儀の席で、「敵の本営である大垣城には、わずかばかりの押さえの兵を残し、主力は佐和山城を攻め、その勢いで大坂城へ向かう」という方針が確認されますが、以前から何度か書かせていただいている通り、これは、あくまでポーズ・・・家康の本心は、やはり関ヶ原で決着をつける事でした。

なので、東軍がこの事を聞きつけたなら「おそらく石田三成は、大垣城から撃ってでるだろう」という予想のもとに、この方針は、わざと西軍へ流されますが、三成が予想通りに大垣城を出るかどうかはわかりませんから、三成が、もし大垣城で籠城作戦をとった場合は、先に大垣城を攻めるつもりであったと言われています。

・・・というのも、実は、9月の初めの時点では、家康は、「三成はおそらく籠城するであろうから、大垣城を水攻めにするつもりだ」とはっきりと言っていたんです。

ところが、ここに来て、家康には大きな誤算が生じていたのです。

それは、東海道を進んだ家康ら(8月10日参照>>)とは反対に中山道を進軍した息子・秀忠の軍が、あの真田昌幸幸村親子の守る上田城で足止めされ(9月7日参照>>)、前日の13日に時点で、未だ到着していなかった事です。

秀忠には、この合戦最多の3万8千の軍勢をつけています・・・つまり、この合戦の東軍の本隊は秀忠の軍だったかも知れないワケで、そうだとすると、現時点での東軍の状況は、「本隊が到着していない」というありえないミスとなっていたワケです。

籠城する敵を崩すためには、圧倒的な数の軍勢で城を囲まねばならないですから、本隊がいない時点では、逆に三成に籠城されては困るのです。

しかも、籠城戦は時間もかかりますから、その間に、西軍総大将の毛利輝元に、豊臣秀頼を掲げて出陣でもされたなら、必死で根回しして味方につけた豊臣恩顧の武将たちが一斉に西軍に寝返る可能性も出てきますから、家康としては、何としてでも、三成に出てきてもらって野戦に持ち込み、素早く決着をつけたい・・・

さらに、途中で天皇が介入してきて、中途半端に和睦させられ、三成派を一掃する事ができなくなっても困るので、あまりに京都に近い場所ではダメ・・・是非とも関ヶ原あたりで・・・というのが、家康のホンネだった?のです。

一方、同じく9月14日・・・西軍本営大垣城には、三成をはじめ宇喜多秀家島津義弘小西行長らがいたのですが、敵のミョーな動きを察したところで、家康の馬印を確認し、愕然とします。

どうやら、彼らは、上杉攻めのため、未だ、家康は東国に釘付けのままだと思っていたらしい・・・。

しかし、この状況を捨て置くわけにはいきませんから、ここは一発景気づけにと、三成は、腹心・島左近勝猛(かつたけ・清興)に500ほどの手勢を預け、敵陣の偵察に向かわせます。

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夕暮れを間近にひかえて、東に大垣城、西に岡山、その間を南北に流れる杭瀬川(くいせがわ)・・・静かに川を渡った島隊は、敵陣の間近まで迫って放火し、敵を挑発します。

東軍からは中村一栄(かずひで)有馬豊氏(とようじ)が進み出て応戦します。

しばらくの小競り合いの後、一斉に再び川を渡って戻ろうとする島隊・・・
追う中村隊と有馬隊・・・
ところが、中村隊と有馬隊が川を渡ったその時・・・
そこに伏兵として潜んでいた宇喜多隊が一斉に銃撃!

本陣で夕食をとりながら、この様子を見ていた家康は、バタバタと倒れる自軍を見て、慌てて兵を撤収させました。

関ヶ原の前哨戦・杭瀬川の戦いは、西軍の圧勝となったのです。

早速開かれた直後の軍儀で、島津義弘は、
「よっしゃ!この勢いで、家康の本陣に先制攻撃や!」
と、提案しますが、三成は、「家康は、本当に、このまま大垣城を無視し、さらに西へ向かうのでは?」と考えます。

西は近江・・・そう、三成の居城・佐和山城があります

「佐和山城下を戦火に巻き込む事は避けたい・・・」
三成の脳裏に市街戦の悲惨な光景が浮かびます。

しかも、すでに9月7日の時点で、毛利秀元長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)長束正家らの西軍主力部隊が、関ヶ原近くの南宮山に着陣しています(9月7日参照>>)

三成の心は決まりました。
決戦は関ヶ原!と・・・

慶長五年(1600年)9月14日午後7時・・・三成は、大垣城の守りとして、娘婿の福原長堯(ながたか・直高)に7千5百の兵を預け、残り4万の全軍を率いて、運命の関ヶ原へと向かったのです。

・・・と、その前に、あの小早川秀秋くんに、寝返りをしないよう、釘を刺しておかなくちゃ!
(そのお話は、昨年の9月14日のページで>>)
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