戦国のネゴシエーター・安国寺恵瓊の失敗
慶長五年(1600年)9月23日、関ヶ原の合戦に敗れて逃走し、京都に潜伏していた安国寺恵瓊が捕らえられました。
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安国寺恵瓊(あんこくじえけい)は、幼名・竹若丸・・・源頼義を祖に持つ安芸(あき・広島県)の名族・武田信重の子として生まれました。
あの武田信玄とは、9代前の信武の時に枝分かれした同族です。
しかし、当時、中国地方で一大勢力を築いていた大内氏に攻められ、父は自害・・・武田氏も滅亡してしまいます。
その時、まだ、4~5歳の幼児だった恵瓊は、家臣たちに守られて脱出し、安芸・安国寺(不動院)に逃れ、その安国寺にて出家する事で、何とか命救われる事となりました。
やがて、京に上り、臨済宗の総本山・東福寺にて禅の修行にはげみ、35歳で安国寺の住持(住職)となり、やがて東福寺や南禅寺の住持にもなり、さらに中央禅林最高の位にもつきますが、幼い頃に保護された安国寺の住持だけは生涯に渡って努めていたので、安国寺恵瓊と呼ばれます。
修行時代の多くを京都で過ごした恵瓊が、天正元年(1573年)の秋に書き記したという文が残っています。
その天正元年という年は、夏に織田信長が越前(福井県)の浅井氏と近江(滋賀県)の朝倉氏を滅ぼす(8月27日参照>>)という出来事があった年・・・まさに信長が上り調子真っ只中の年だったのですが、恵瓊は、信長と当時まだ出世途中だった秀吉について書き残しているのです。
「信長の時代は3~5年くらいはもつやろな。
来年くらいは公家をもしのぐ勢いになるやろけど、その後は高いとこから仰向けに転がり落ちるような事になるやろ。
藤吉郎(豊臣秀吉)は、なかなか見どころのあるやっちゃ」
果たして、恵瓊の予想通り(年数はちょっとズレましたが・・・)、その10年後に信長は本能寺で死に、秀吉は天下を握りました。
まだまだ、大いに神仏に依存していた当時の人たちから見れば、僧侶である彼のこの言葉が、占いや予言の類に聞こえたかも知れませんが、現在の私たちには、その言葉が、単なる予想ではなく、彼のスルドイ観察力から導き出した根拠のある見解だという事がわかりますよね。
そんな、彼の優秀さを見抜いていた人が、この戦国の世にもいました・・・恵瓊の生涯の師である恵心です。
その恵心に帰依していたのが、あの大内氏を滅ぼして中国一帯に勢力を伸ばしてきた毛利氏元就(もとなり)(4月3日参照>>)・・・その関係から、恵心を通じて、恵瓊は毛利氏の外交担当に抜擢されるのです。
現在もそうですが、とかく外交というのは難しい・・・できれば、その交渉には敵対する両者の利害に関わらない人が行うのがベストなわけで、俗世間から離れた立場にある僧侶という中立の人物がうってつけだったわけです。
ただ・・・皮肉な事です。
実は、冒頭で、“武田氏は大内氏に滅ぼされた”と書きましたが、実際に父を死に追いやったのは、当時まだ大内氏の傘下にあった元就なのです(10月22日参照>>)。
恵瓊に葛藤はなかったのでしょうか?
それとも、大役を紹介してくれた師の面目を潰さないためなのでしょうか?
その心の奥深くはわかりませんが、とにかく恵瓊は、その毛利氏の対外交渉を一手に引き受け、その手腕を発揮する事になります。
そんなこんなの天正十年(1582年)、彼の転機が訪れます。
信長の命を受け、中国平定に遠征してきた羽柴(豊臣)秀吉が、備中・高松城に水攻めを開始(4月27日参照>>)します。
知らせを聞いて援軍に駆けつけた毛利の両川・吉川元春(元就の次男)と小早川隆景(元就の三男)も、湖中に浮かぶ高松城になすすべもなく、長期戦に入った籠城戦の交渉は、恵瓊をもってしても難航を極めるのですが、その交渉中・・・あの本能寺の変が勃発(6月2日参照>>)するのです。
主君の仇を討って、家臣団から一歩抜きんでるためにも、一刻も早く、畿内へ戻りたい秀吉は、それまで譲らなかった毛利の領国の割譲を、あっさりと後回しにし、とにかく高松城主・清水宗治(むねはる)一人の自刃のみで和睦する事に方向転換・・・。
その変わり身の向うにどんな思惑があるのかを、恵瓊は、すでに、気づいていたのかどうか・・・ともかく、その後の交渉はトントン拍子に進み、6月4日に和睦が成立(6月4日参照>>)、そして、ご存知の中国大返し(6月6日参照>>)、山崎の合戦(6月13日参照>>)と、こなして、秀吉は、見事に信長の後継者の位置をキープする事となったのです。
さて、残るは、領国に関しての和睦交渉・・・翌月、秀吉に会いに行った恵瓊に、秀吉は、「伯箒(ほうき・鳥取県中部)・備中(岡山県)・美作(みまさか・岡山県北東部)の三国をこっちにチョーダイo(*^▽^*)o でないと合戦をおっぱじめちゃうかもよ」と、案の定、領国のの割譲を要求してきたのです。
その後、何度となく行われた交渉で、何とか、吉川広家(元春の三男)と毛利秀包(元就の九男)を人質として、秀吉のもとにおく事で、領地を安堵するという条件にこぎつけました。
さぁ、今度は、この条件を持って、毛利氏への説得です。
恵瓊は、毛利氏と秀吉との戦力の差を包み隠さず告げ、合戦になれば、おそらく毛利が負けるであろう事、その経済力においても、全国ネットの秀吉に比べ、現在の毛利は所詮、地方大名である事などを、すべてを失った柴田勝家(4月23日参照>>)などを例にあげて説得し続けるのです。
やがて、天正十三年(1585年)、ようやく和睦が成立します。
その年の12月、恵瓊は小早川隆景をはじめとする毛利の家老たちとともに大坂へ向かい、秀吉と会見します。
秀吉は、平和裏に毛利が傘下となった事を大いに喜び、茶会などを催して毛利の一行を迎えるのですが、その会見の席で・・・
秀吉を前に、毛利の一行は、当然、客人席に・・・
しかし、恵瓊は、その反対となる主人席に着席したのです。
隆景ら毛利の一行は、この時、初めて、恵瓊が中立の交渉人ではなく、すでに秀吉の家臣となっていた事に気づかされたのです。
人たらしの秀吉と、その秀吉が見込んだ恵瓊・・・
その後の恵瓊は、秀吉のもとで重用され、僧侶の身分のまま6万石の大名という異例の立場となって、豊臣政権下で大いに活躍する事になります。
しかし、慶長五年(1600年)の関ヶ原の合戦・・・今度は、その秀吉恩顧が仇となります。
豊臣家第一の立場から、石田三成側についた恵瓊は、毛利輝元(元就の孫)を説得し、西軍の総大将へと押し上げたのです(7月15日参照>>)。
しかし、この合戦は徳川家康に勝算ありと見ていた吉川広家は、水面下で家康と通じ、輝元を大坂城から出ないように仕向けるとともに、合戦当日はまったく戦いに参加せず、東軍勝利という結果に大きな影響を与えたのです(9月15日参照>>)。
広家が動かず、その後方に位置する毛利秀元も動かなかった事から、結局、恵瓊自身も、戦う事なく関ヶ原を敗走する事になってしまいました。
戦場を脱出した恵瓊は、伊勢・近江を経て古巣の京都にて潜伏中に発見され、慶長五年(1600年)9月23日に捕縛されるのです。
すでに9月19日に捕らえられていた小西行長(9月19日参照>>)、21日に捕らえられた三成(9月21日参照>>)とともに、10月1日に京都・六条河原にて、恵瓊は処刑されます。
あれだけ、観察力が鋭かった恵瓊が・・・
秀吉への恩からか?
はたまた、大名という立場に浸り過ぎたのか?
彼の心眼では、関ヶ原での家康の器量を見抜けなかったのか?
あの日、元就の刃から、命からがら逃れた幼子は、五十数年後に、再び毛利によって、その人生を狂わされる事に・・・
何やら因縁めいたものを感じてしまいます。
←石田三成と安国寺恵瓊が関ヶ原の作戦を練ったと言われる恵瓊設計の茶室=作夢軒(さくむけん)のある退耕庵(たいこうあん=京都市東山区)
*茶室内部については2009年3月9日の『非公開文化財特別公開』のページへ>>
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コメント
安国寺恵瓊の最大の失敗は、外交僧としての自惚れがあったような気がします。恵瓊の人生において、最大の転機となったのは、やはり、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)との出会いでしょう。秀吉は偶然とはいえ、明智光秀が本能寺の変を引き起こしたことを知った上で、恵瓊に対して、清水宗治の切腹を条件に、講和を進めることに成功したことで、後顧の憂いを除去することができました。そのため、恵瓊に対して、秀吉が、強い恩義を感じて当然だったのかもしれません。しかし、恵瓊にとっての後ろ盾であった秀吉が、慶長3年(1598年)に死去したことで、徳川家康が台頭してきましたが、恵瓊は、家康を敵に回したことで、最終的には、斬首によって、非業の死を遂げることになってしまいました。秀吉に対して、尊敬を抱くことは、決して悪いことではありませんが、強すぎる尊敬心が、恵瓊が持っていた先見の明を、鈍らせるだけ鈍らせてしまったのではないでしょうか。
投稿: トト | 2016年3月10日 (木) 18時40分
トトさん、こんばんは~
関ヶ原の戦いは、豊臣VS徳川の戦いではなく、豊臣家内の派閥争いです。
派閥争いは腹の探り合い…先の見えない部分もありますね~
投稿: 茶々 | 2016年3月11日 (金) 03時21分