シーボルト事件のウラのウラ
文政十二年(1829年)9月25日、幕府の禁制品を持ち出そうとしたドイツ人医師・シーボルトに、国外退去・再入国禁止の処分が下されました。
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当時、長崎の出島にあったオランダ商館付きの医者として文政六年(1823年)に来日したドイツ人医師・シーボルト。
学校と病院を兼ねた鳴瀧(なるたき)塾を開きながらも、その学識は医学だけにとどまらず、動・植物学や地理学・自然科学などにも通じ、多くの弟子たちを育てた事で知られ、日本の西洋学の恩人とまで言われます。
そして、シーボルト自身も、全国から教えを請いに来る弟子たちの協力を得て、日本の風俗や歴史・地理・自然などを調査し、それらをヨーロッパに向けて紹介するという事もしています。
そんな彼が、5年間の日本滞在を経て、帰国しようとした文政十一年(1828年)8月10日、その荷物の中に、伊能忠敬の日本地図(9月4日参照>>)が入っていた事で、一大事件となります。
幕府の天文方(てんもんかた)の役人だった高橋景保(かげやす)なる人物が、かねてから欲しかった洋書をシーボルトに譲ってもらい、そのお礼として渡したのが、その地図だったのです。
しかし、地図という物は軍事利用も可能である事から、当時の幕府は海外への持ち出し禁止・・・つまり、ご禁制の品だったわけです。
当然、それを持ち出そうとしたシーボルトにはスパイ容疑がかかり、渡した景保は売国奴として投獄されてしまいます。
シーボルトにしてみれば、あくまで学術的な興味で持ち帰ろうとしたのでしょうが、ご禁制はご禁制・・・で、事件発覚から一年後の文政十二年(1829年)9月25日、国外退去・再入国禁止の処分が下されたのです。
ところで、この事件の決定的証拠となったその日本地図が、シーボルトの荷物の中に入っている事、それを渡したのが高橋景保である事を幕府にチクッたのが、あの樺太探検で有名な間宮林蔵(まみやりんぞう)である事は、以前に書かせていただきました(5月17日参照>>)。
林蔵は、シーボルトから自分へ送られて来る手紙が、直接、自分に送られてくるのではなく、景保を通じて送られてきた事から、二人の密接な関係に気づき、調べ上げたようです。
なんせ、探検家は仮の姿・・・林蔵の本職は公儀隠密なのですから・・・。
かくして、景保さんはお気の毒にも獄中で病死し(2月16日参照>>)、シーボルトは国外追放!となって、このシーボルト事件も一件落着・・・と、思いきや、何やら、まだ謎があるようです。
・・・というのも、この時期、シーボルト以外にも、ご禁制の品を海外に持ち出した外国人がいないわけではなかったのです。
シーボルト以前にも、何人ものオランダ人が同じような事をやっていながら、幕府はそれらを見て見ぬふりをしていたのに、なぜか、このシーボルトの一件だけは、見逃さなかったのです。
それは、いったい・・・?
実は、シーボルトにかけられた容疑は、スパイ容疑だけではなく、密輸の疑いもかけられていたようなのです。
そして、そこには、もう一人の大物がからんで来ます。
密輸関連で、シーボルトと親しい関係にあったとされるのは、第8代薩摩藩主・島津重豪(しげひで)・・・彼は、自らもオランダ語を話す事ができたというくらい大変な蘭学好きで、長崎のオランダ商館へも出入りしていましたし、共謀して密輸をするほど親しかったかどうかはともかく、シーボルトとも面識があった事は事実です。
しかも、彼の娘・茂姫は、時の将軍・徳川家斉(いえなり)の御台所(将軍の正室)・・・もし、本当に密輸をしていたとしても、なかなか手が出せる相手ではありません。
つまり、このシーボルト事件は、以前から密輸の疑いがかけられていた重豪への牽制ではなかったか?という事・・・親しい関係にあるシーボルトを罰し、もしかしたら共謀して密輸をしているかも知れない重豪をビビらせるのが、幕府の本来の目的であったのかも知れません。
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